保土ヶ谷宿~戸塚宿のルート
天王町駅を南口に出ると駅前広場があります。
ここに旧帷子橋跡とあります、ちょうど浮世絵に描かれた辺りだそうですが、川もないし全然面影がありません。
一生懸命雰囲気は出そうとしてレプリカが置いてあります。
帷子川は流れが変わり現在はモスバーガーがあったそばの北口側に流れています。江戸方の見附かと思いきや、現在の帷子川の手前であったそうで全然気が付きませんでした。
既に程ヶ谷宿に入っていたそうです。程ヶ谷は現在、保土ヶ谷と書きますが明治時代は程ヶ谷と書いたそうです。ですがなんとそれ以前の江戸時代は保土ヶ谷と書いたとのこと。
ですのでここからは変換も面倒なので江戸時代に合わせて保土ヶ谷と書きます。知らなかった…
東海道五十三次之内 保土ヶ谷 新町橋 – 歌川広重 – 日本画 – 名画 – Canon Creative Park
東海道とは全然関係ない話なのですが、神奈川県に入ってずっと公園等に公衆トイレが全くないのに気がつきました。
都内は本陣跡の公園などに公衆トイレが設置されていたのですが…神奈川はありません、あるのかもしれませんが私が歩いた道のりではこの先もありませんでした。
横浜出身八潮在住の方にそれを聞くと「あーそういえばないですね、恐らく神奈川って中高生が公園にたまるという文化が埼玉より強い気がします」とおっしゃっていました。
他の地域でも子供たちが商業施設や公園でたむろするのはごくごく一般的な光景だと思うのですが…
確かにヤンキー漫画の舞台になることも多い神奈川県、人口日本一の自治体横浜市なので財政的に厳しいというのは考えられないので、公衆トイレがあると中でいらんことをする輩がいるのかもしれません。なので神奈川県内では※これを書いている段階では大磯までしか行ってませんが…
この先もトイレには悩まされることになります、旧街道沿いは意外にもコンビニもあまりないので辛い時もありました。
日本では市街地や公共の場所での立小便は軽犯罪法違反になる恐れもありますし、昭和の時代のおじさんのようにところかまわず立小便をしてそれを目撃してしまった方を不快にさせたくないのでそれはやめようと思います。
ここからJR保土ヶ谷駅までは都市化されておりほとんど痕跡はありません保土ヶ谷駅前ロータリーに行く道路と商店街の旧道に分かれる道を行くと問屋場跡や高札場跡の碑があります。
それより先に行くと、東海道本線の踏切があります。
それを渡ると国道1号線とぶつかります。
道路の向こうには偉い人たちが宿泊する本陣跡がありました、ずいぶん古い建物です使用しているのかわかりませんが保全はされているようです。宿場町というのは入り口と出口が鍵状に曲がり角になっている事が多いです。これは敵が攻めてきた時に宿場の中が簡単に見渡せないようにしているのでこうなっているみたいですね。ここも右側に曲がっております。
歩いていくと右側の線路の向こうに素敵なお寺があります。大仙寺というそうです、寄り道したかったですが足も痛いし時間もないのでスルー
そしてトボトボ歩いていると道路に停まっていたトラックの後ろにいた某大手宅配会社の中年女性ドライバーに声をかけられました。
「すみません、この台車の荷物重いので車に載せるのを手伝ってもらえませんか」と言われ…
いやいや仕事なんだからどこの誰かもわからない人間にお客さんの大事な配送品を持たせちゃダメだろ、もし俺が落としたら補償の問題とかどうすんだよという思いがよぎり無視していこうとしましたが…
まてよ、江戸時代の人は今の時代より不便だったけどそんなの関係なく助け合って生きていたんだよなと思い直し、巨大な荷物をトラックの荷台に載せるのを手伝いました。
もちろん女性ドライバーには大変感謝してもらいましたが、「いえいえとんでもございません、これから京都まで歩いていくんです」と言ったらせっかく良い事をしたのにこいつ頭がおかしいんじゃないかと台無しになりそうなので、「頑張ってくださいね」とだけ言っておきました。
歩きながら私は現代の決まりとか価値観にとらわれすぎて、損得抜きにした助け合いの精神が無くなっていたのだと自覚しました。賽銭箱に小銭入れたら良い事があるみたいな見返りを求めたセコイ考えはあまり持たないようにしようと思いました。今朝、鶴見の神社で旅の安全を祈願してしまいましたが…旅をさせていただきありがとうございますという気持ちのが良いのかと禅問答のように考えていると、茶屋本陣跡の表記がありました。今は一般の住宅になっているので写真は撮らず。大きな宿場には2~3個本陣があることがありますね。
先に行くと左手に一里塚が…
この辺りが京側の見附なのかもしれません。裏側には崖にへばりつくようにマンションや住宅が建っています。個人的にはこの光景が横浜らしい光景だなあと思います。
いちょうがきれいです、落ち葉の処理が大変なんですけどね… 養護学校の先生らしき人が子供を連れて歩いていました、大変な仕事ですよね。
この先は二股に分かれ歩道がない旧道に入ります、道も狭いし車も通るし歩くには嫌な区間です。
東海道線によって分断されたお寺があり、歩道橋の工事をしていました。これまではお寺内の踏切で行き来していたようです。往来が激しく工事中でもあったので写真は撮れず。
東海道線にはこのように分断してしまったお寺などが他にもあり静岡にも有名な寺院があるのでそこに行くのが楽しみです。
やっと権太坂の入り口に到着、セブンイレブンがあったのでトイレを借りてお茶を購入。天王町駅のモスバーガーはトイレが故障中だったので神奈川宿の入り口の公共施設からここまでやっとトイレを使うことができました。この時点で13:30過ぎ
東海道の見どころの一つ権太坂です。急な坂道沿いにはマンションや住宅が並びます。
なかなか急な坂ですが、ここまで16kmほど歩いてきてあることに気がつきました。
上っていてもそんなに辛くないのです、もちろん楽ということはないんですが平地を歩いている時と使う筋肉が違うので平地を歩いていた時に痛んだ部位が痛まなくなったりするわけです。
当たり前のことなのかもしれませんがこれは発見でした。
保土ヶ谷バイパス?だと思いますがその道路を超えます。
おそらく山を削って道路にしたのだと思います、橋自体も傾斜があります。
橋の下に車がビュンビュン飛ばしています。
遠くにランドマークタワーが見えます、昔は海が見えて綺麗だったんでしょうね。京都からここに来るともうすぐ江戸だという気持ちになったのだそうです。
橋を渡ると工事現場の脇に石碑がありました。
江戸から西へ向かう人がはじめて経験するキツイ登り坂でしたと記載してあります。
ちなみに権太坂は律令国制において武蔵の国と相模の国の境界であったとのこと。
ついに相模の国に入ることができたわけです。
坂道の上には高校や小学校、支援学校などがあります。
学校は土地がないとできないので、割と遅くに開発された地域なのだと思います。高校の創立が1968年末期という事なので高度経済成長期で人口が増加していたのだと思われます。
一般的に山の手というとお金持ちが住む地域という印象ですが、横浜周辺に関していうと港の近くの高台を除いては土地が少なくて仕方ないから丘の上に建てたという感じがしますね。先ほどの山にへばりついたマンションや住宅もそうですね。
実際この辺の住宅は庶民的な作りのものが多かったです。
昭和初期はこの辺りで林間学校をやっていたと写真付きで紹介されています。
権太坂の由来には二つあって
通りかかった旅人が歩いていた地元の老人に向かって「この坂は何という名前だい?」と聞いたところ耳が悪い老人は自分の名前を聞かれたと思い「へぇ権太でございますよ」と答えたのがきっかけという説と、権左衛門という人が代官の指図でこの坂を作ったので「権左坂」と名付けたがいつのまにか「権太坂」に代わっていたという説があります。
私は漫画藤枝梅安で紹介されていた老人の勘違い説が好きです(笑)
住宅街を歩いていくと境木小学校前という小さいバスロータリーがあり、そこの消防団の詰め所に浮世絵が書いてありました。
女子高生がそばにいたので盗撮と思われないか心配でしたが杞憂に終わりました。写真を撮る時には人が写りこまないように配慮しなければなりません。
これは鎌倉山方面の絵だそうです。
ここからはバス通りで往来があるので歩道があります。
歩道が広くなっているところがありここが境木立場跡、間の宿であったんですね。この先は下りで焼餅坂、少し上って品濃坂と続きます。
江戸から来ても京から来てもこの辺りが頂上なので一息いれる場所が必要だったのでしょう。
目の前には境木地蔵尊があります。
焼餅坂、昔はここで旅人に焼き餅を売っていたそうです。
住宅街を上って下ると品濃坂一里塚がありました。神奈川県内に両側に一里塚が残る場所はここのみらしいです。
確かにこんもりとした山が残っています。
一里塚を過ぎたところに30代か40代くらいの男性がケアセンターの目の前の道の真ん中に痰を吐いていました。
見ていて気持ちが良いものではないです、人に見えないところで側溝などに吐くなりすればよいのに。
客観的に自分を見れない人間にはならないようにしようと思いました。
右側にはJR東戸塚周辺の壮大なマンション群が見えます。
川崎からここまでちょうど20キロほど、時間は14時19分。前回あるいた日本橋ー川崎間と同じ距離ですが疲労や痛みが前回に比べて楽です。
ここから帰るパターンも考えていましたが、夜の会合にもまだ間に合いそうなのでウォーキングを続行しました。
人間の順応する力はすごい!
先に行くと果樹園があったり、のどかな風景です。
品濃坂にぶつかります。ここは歩道の階段だけです。旧東海道の看板がありがたい。
それにしても落ち葉がすごいです。
ここも先ほどの保土ヶ谷バイパスと同じように山を削って作られたと思われる環状2号線があります。
ここからほど近い丸山台というところにある高校ラグビー部の先輩が営む家系ラーメン店はま家に行く際に通ったことがあります。
立ち寄りたいところですが、徒歩で寄り道はかなりきついので断念。店舗案内|横浜市港南区丸山台 横浜ラーメン はま家 (ramen-hamaya.jp)
ここからの道は過酷でした、風が強く砂煙が舞う住宅街を抜けるとバス通りにでます。
なんとも退屈だし疲労もでてきました。
足全体に痛みが出だしました、ただ部分的に痛いのではなく足裏、ふともも全体に痛かったのでバランスよく使えるようになってきているのだと実感できました。
夕方の渋滞が始まってきておりトラックなども通ります。一号線に合流し歩道をひたすら歩きます、特に史跡などはなく退屈な道のりです。
巨大なヤマザキパンの工場があったり、名だたる日本のものつくりの企業の工場が並びます。
港に近く、かつては広大な土地があったからかと想像しながら歩いているとやっと一号線と戸塚駅に向かう旧東海道の分岐に差し掛かりました。
旧道は住宅街を抜けてきます。そうするとレンガ作りの立派な建物が…
特に看板等はありませんでしたが、後から調べてみるとここは明治時代からある有名な鎌倉ハムの最初の貯蔵庫だったそうです。斎藤家という家が営んでいるんですね、かつては隣に広大な屋敷があったそうです。
なんでもホテルとハムの為の牧場経営を行っていたイギリス人と恋仲になったかねさんという方の奉公先が斎藤家だったと。そういうつながりから鎌倉ハムが誕生したそうです。
何故戸塚なのに鎌倉かというとかつてはこの辺りは鎌倉郡という地名だったためだそうです現在は横浜市でありますが。
この時代に異国の方と恋愛して結婚するってすごいですよね、港町に近い戸塚ならではのお話です。
しかもその方のおかげで紆余曲折を経て今も鎌倉ハムとして会社があるのだから、なんともロマンを感じます。
創業130年超の老舗の味、今度食べてみようと思いました。
川にぶつかり再度国道1号線と合流、五太夫橋を渡ります。
この辺りでは足をつくと痛いので歩き方がジョギングのようになってます。立脚相の時間をなるべく減らしたいという感じでしょうか。
その先にやっと戸塚宿江戸側の見附に到着、東海道5番目の宿場町になります。
現在は大きいイオンのショッピングセンターがあります、ここも工場跡だったのでしょうかね。
工場跡地は大抵ショッピングモールかマンションになることが多い気がします。※ストリートビューで確認するとかつてここはダイエーやファミリーレストランフォルクスであったようです(笑)それ以前はわかりませんが…
柏尾川に架かる吉田大橋を渡ります、浮世絵はこの辺りでしょうか。
ちなみに浮世絵の写真はJR戸塚駅に展示されていたもの。
ここからしばらく歩くと15時26分JR戸塚駅に到着
この場所はかつて踏切があった場所でなんと2015年まで存在したそうです、割と最近ですね。
箱根駅伝第30回大会まではここがルートだったので昭和24年くらいまでは電車に待たされることになってしまったランナーがいたとか…
この日はここで終了、東海道線湘南新宿ラインに乗ってしまいグリーンアテンダントさんに武蔵小杉で横須賀線に乗り換えれば品川に行けますよ~と教えていただいたので無事リカバリーして17時には八潮に帰ってくることができました。
2023年11月28日 川崎宿~神奈川宿~保土ヶ谷宿~戸塚宿
川崎駅~戸塚駅までの移動距離27.82km 7時間57分
当日の総距離28.23km歩数41,824歩
電車賃 4,014円 グリーン券含む
コーヒー代 280円
お土産海苔 605円
今川焼 120円
昼食代モスバーガー 1,290円
お茶代 138円
合計 6,447円 (総計11,353円)
備忘録としてどれくらいお金がかかるのか載せています(笑)
これから電車賃もかさむと思うので時間と費用のバランスを考えなるべく節約しつつ楽しみたいと思います。
次回は年内最後の行程となります。
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