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ほぼ一か月ぶりに東海道の旅を再開。
実は先月11月は勉強会の為、上方(京都)に2度赴きました(笑)
飛行機と新幹線で行きましたが、3時間もかからず到着してしまうという現代の交通技術の素晴らしさを以前よりも実感する事ができました。
京都駅は大きいスーツケースを持った外国人やキャリーケースを無造作に転がす日本人観光客で溢れていました、観光で潤うのは結構ですが住民の方々の暮らしが脅かされているそうでオーバーツーリズム対策も本腰を入れないと住民にとっても観光客にとっても良くない結果になってしまうのではと思いました。
さて、今回の旅は川崎宿~相模の国戸塚宿を目指します。地図は川崎駅から横浜市生麦付近までのもの
朝、電車を乗り継ぎ8時30分過ぎにJR川崎駅に到着、もうすでに通勤客で溢れており普段満員電車とは無縁の生活を送っている私としてはなかなか新鮮でした。
一応サラリーマンをしていた頃もあるのでその頃は毎日乗っていたんですけどね。
川崎駅に着くと、通勤のサラリーマンに紛れて私立小学校と思われる制服を着た子供たちがチラホラ、中には活字の本を読んでいる子供もいて驚きました。
将来の日本を担う優秀な頭脳達です。
ここから旧東海道を鶴見方面に歩きます。
居酒屋さん等飲食店が多いですね。
しばらく歩くと飲食店も少なくなり。
京急線の線路の脇に松尾芭蕉の石碑がありました。
松尾芭蕉が伊賀へ旅発つ時に、弟子との別れを惜しんで川崎宿で『麦の穂をたよりにつかむ別れかな』(風にも揺れる頼りない麦の穂を頼って歩く旅立ちの別れであるよ)と詠んだそうです。
この年に大阪で辞世の句を残してこの世を去ったことから芭蕉に関東で最後に詠まれた句となったとのこと。
松尾芭蕉っていつもお金が無く、方々の金持ちに今でいうスポンサーについてもらって生活し旅をしていたそうですね。
私には俳句等の素養がないので何が楽しいのか良くわかりませんが、娯楽が少なかった昔はお金を払ってでもそういう才能に援助するのはある種のステイタスであったのかもしれません。
亡くなった後、芭蕉が神格化された事を考えるとうちの敷地の草庵で暮らしていたと自慢したり、価値がある書を保有できたことを考えるとそのスポンサー達も元をとったのだと仕掛け人藤枝梅安で梅安先生も言っておりました。
都内ではあまり見なくなった踏切
八丁畷はっちょうなわて駅に到着、ここは京急線とJR南武線の支線の乗換駅だそうで珍しく乗り換えの際は他社線にも関わらず改札がないのだそうです。
京浜工業地帯に乗り入れる南武線の支線や後で出てくる鶴見線は一度乗ってみたい路線ではあります。
東芝の敷地内の為、一般人は降りられない海芝浦駅なんかもいずれ行ってみたいと思います。
旧東海道はこの踏切を渡っていきます。
駅の傍らには無縁塚がありました。川崎宿は多摩川の洪水をはじめ大火や飢饉、疫病などたくさんの死者が出たこともあり、身元がわからない遺体は宿場の京側のはずれであるこの辺りに埋められたそうです。昔は人家などもそんなになかったエリアなんでしょうね。今は立派なマンション等も建ち品川、横浜と都心へのアクセスも良い事から人がたくさん住んでいます。
ただ、戦後になっても道路工事などをやると人骨が出てくることもあったそうです…
しばらく歩くと右側に熊野神社があります、旅の安全を祈願しお参りしてきました。
市場銀座商店街がありますが昔ほどの賑わいはないそうです。鶴見川を渡るまでは川崎市と思い込んでいましたが、もうすでに横浜市鶴見区に入っていたようです。
鶴見市場とは言いますが調べても市場に関する情報はなく、今は現存していないのかと思いました。
駅の反対側の国道沿いには箱根駅伝で有名な鶴見中継所があります。第一走者は日本橋からここまで1時間で来てしまうそうです。
その先の左側に一里塚がありました。
一里塚とは街道沿いにある目印、一里約3.927kmごとに土盛りした塚を設けて旅人に目印にしたり運賃や送料の基準としたそうです。
昔はこの辺りは市場村と呼んだんですね。
それにしても旧街道あるあるなのですが、道幅が狭いのは良いのですが歩道も無い道路に車の往来がありそこに自転車も来るなど現代の東海道の旅人を苦しめます。
品川宿のようにほぼ歩行者天国のようになっていると楽なのですが…
そこからようやく鶴見川橋に到着。
橋から見える鶴達を見て徳川家康が鶴見橋と名付けたんだとか…
鶴見という地名もこの橋の名前が由来のようです。
鶴見川は地図で見てもわかるようにかなり湾曲しており、度々洪水を起こす暴れ川として昔から有名でした。
この上流には横浜国際競技場(日産スタジアム)があり、2019年10月ラグビーワールドカップが開催されていた際に台風が直撃。
このスタジアムを含めた周辺は洪水を防ぐための貯水池としての設備でもあったため、グループリーグのフランス対イングランド戦は中止。
翌日の日本対スコットランド戦も開催が危ぶまれた話もありました。
中止引き分け扱いでは決勝トーナメント進出が出来なかったスコットランドのヘッドコーチは「日本が逃げた」等暴言を連発。
関係者たちの努力でスタジアムを復旧させ開催をこぎつけ、見事日本が勝利した事を思い出しました。
あれから4年今年はフランスでワールドカップが開催され、月日の流れる事がなんと早い事かと思いますね。
ここに鶴達がいたんですね~
今は東京湾の京浜工業地帯に遮られ海は見えません。
橋を渡りしばらく進むと京急線の鶴見駅が正面に見えます。※写真はJR鶴見駅
旧東海道は鉄道や国道に分断されているところが多く高架をくぐって線路の反対側にでます。
鶴見は川崎宿と神奈川宿の間の宿だったそうで、当時からそこそこ賑わっていたみたいです。
私事ですが、私の祖父は山形から上京し現在も京浜工業地帯にある日本鋼管(現JFEスチール)の社員であったため、父は日本鋼管の社宅があるこの鶴見で育ちました。
私が生まれた頃は祖父も退職し瀬谷区の方に戸建てを購入し引っ越していたので、私が幼い頃に鶴見を訪れた事はありませんが…
亡き父がここで育ったのだと色々思いを馳せながら歩くことができました。
京急鶴見駅の反対にでると
あなたのお店銀次郎というお店が…サラリーマン金太郎で有名な漫画家本宮ひろ志さんの絵でしょうか?
調べてみると江戸川区の小岩や世田谷の池ノ上駅のそばにも同名のお店があるようでチェーン店かフランチャイズなのかもしれません。
実は本宮ひろ志さんの甥っ子は私の高校の同級生、確か新小岩出身だったのでもしかしたら縁があってイラストを提供したのかなと思いました。
その窓ガラスに田庄の焼きのり取り扱い店の文字が!
この田庄さんは大田区にある海苔問屋さんで、叔母の知り合いだった縁から我が家では年末になると毎年箱で注文しておりました。
子供の頃から食べているので何とも思っていませんでしたが…大人になってスーパーのプライベートブランドの海苔を食べてそのまずさに驚いたのと同時にこの海苔のありがたみを知ることができました。
子供のころから贅沢が当たり前になると不幸になるという戒めとなりました。
ということで思わず入店、お正月のお餅用に海苔を購入しました。
今はアマゾン等ECサイトでも購入できますので是非
ここから道なりに行くと国道15号線にぶつかります、旧道は国道の反対側となります。
少し行くと、鉄オタには有名な鶴見線、国道駅があります。
この国道駅北口は旧東海道に接しており、南口は国道15号線に接しています。1930年昭和5年に開業そこから大規模な改修工事等は行われていないため90年以上前の雰囲気が今も残されます。
こちらは旧東海道側、ならず者が落書きをしています。このような歴史的文化遺産とも言える建物に下手くそな落書きをする知能が低い輩がいるんですね。
港湾地域に行く支線のような役割の為、ここでの乗降は付近にお住いの方位のようで一日1000人ちょっとで横浜市にありながら無人駅だそうです。
suica等ICカードの読み取り機は設置してありました。
改札外にトイレがあったので拝借しましたがアンモニア臭がすごいです、恐らく掃除等は行っているのだと思いますが排水設備が古いのだと予想されます。
男性用の便器と和式便器がありました。無料で使っているので文句は言えません。
こちらが国道側
こちらもならず者の落書きを消した跡があります。
そこに怒りを覚え、上に目をやると網の奥にボコボコ穴が開いております。
これは太平洋戦争末期のアメリカ軍機P51マスタングによる機銃掃射の跡だそうです。
川崎から横浜一帯は軍需工場があったのでそこをつなぐ鉄道を狙ったのだと思いますが、川崎や横浜の大空襲では沢山の人々が犠牲になりました。
今は同盟国ですが住宅もある旧街道沿いに機銃掃射をするとは…
大戦初期には無敵を誇ったゼロ戦もこのころにはP51に相当苦戦したようです、それでもエースパイロットが乗るゼロ戦がP51を撃墜することもあったとか。
そんな優秀な若者達が最前線に送られ空に散っていったと思うと無念でなりません。
本当に昭和の時代にタイムスリップしたと見まごうばかりの光景です。
ここから旧東海道に戻り歩いていると、魚屋さんがチラホラあります。
生麦魚河岸通りと言うそうです、以前テレビで見たことがありましたがここだったとは。
ちゃんとした営業時間はないそうですが。8時半から10時くらいに行くと開いているそうです。
私が訪れたのは9時過ぎだったので営業しておりました。
今度車で訪れたいと思います。
家々間から先ほど渡った鶴見川が見えたので住居の間の細い通路を通って川沿いに出ると、先ほど行った国道駅を通る鶴見線の橋梁が見えました。
11月末の割に暖かく散歩している方もチラホラ。
川の向こう側に物凄く新しく大きな学校が、これは横浜市立横浜サイエンスフロンティア高校という高校だそうです。
少子化の中、新設校を作れるとはさすが日本一人口が多い自治体ですね。
今後AIやインターネット技術により今後文系学生の就職先は激減するでしょうし、これからの日本を担う理系の若者を育てるのは正しい選択と言えます。
税金の正しい使い方を見ることができました。
この辺りになると海も近いので川幅も広くなります。
道なりに歩き、旧東海道に戻ります。
そこには有名な生麦事件の発生現場があります。
現在は一般の住宅が建っているので、住民の方に悪いので看板だけ写真を撮りました。
本当に普通の住宅街です。
その先の国道15号線との合流部にはキリンビールの工場があります。
その一角に生麦事件の碑が設置されております。
私が今まで聞いていた生麦事件は、大名行列の前を横切って無礼者!とぶった切られてしまった気の毒なイギリス人というイメージだったのですが…
よくよく調べてみるとそうではなかったようです。
1862年文久2年、江戸から京都へ向かう薩摩藩の大名行列が生麦村に差し掛かった頃、横浜の居留地から「日曜日だから川崎大師でも見に行くか~」と乗馬をしていた亡くなったリチャードソンをはじめとしたイギリス人四人が正面より近づいてきたそうです。
行列の先頭にいた藩士達は身振り手振りで下馬して脇によれと伝えていたそうですが、イギリス人たちは「脇を通れ」という意味だと思い込み道幅一杯の行列の中に入り込んでいってしまい、当時の薩摩藩主の父、島津久光が乗る籠のそばまで来てしまい供回りの藩士達が大慌てで静止しようとした際に行列の中で無理やり方向を変えようとしたイギリス人に危険を感じ抜刀し切りかかったそうな…
リチャードソンは深手を負いとどめを刺され死亡、3人はこの先に出てくる神奈川宿の当時のアメリカ領事館本覚寺に助けを求めて逃げ込んだそうです。
その後、これに怒ったイギリスが幕府に詰め寄り。幕府は賠償金を支払ったものの、イギリスは軍艦を薩摩に派遣、薩英戦争に突入したとのこと…
まあ殺されたリチャードソンは気の毒なんですが、自業自得ですよね。
仮に私がイギリスに行ってエリザベス女王の車列に近づいていき、エリザベス女王が乗っている車のすぐそばまで行ってしまったら銃殺されても仕方ないと思うんですよ。
その国に行ったらその国の文化やしきたりがあるわけで、外国人はそれを理解して倣わないといけないわけです。
当時は情報が少なかったと言う人もいると思うのですが、あの時代に外国にいって商いをしたり政治をする人はそれなりの人であったと思われるので相手国の文化を知らないのはおかしいんですよね。
イギリスに詰め寄られて賠償金払ってしまう幕府も弱腰に見えるし、薩英戦争でイギリス海軍相手に受けて立った薩摩の男気を感じます。
幕末の薩摩は、見方によっては政府を転覆させたテロリストとも言えるので簡単に評価はできませんがこの事件に関しての心情は理解できるかなと。
もちろん、在日イギリス人の中にもリチャードソンに非があるという方もいたり幕府も賠償金なんか払う必要ないという人もいたそうです。
アメリカなんかはこの件については日本に同情的であったり、リチャードソンの知人達は彼は向こう見ずで傲慢だったという証言もありますね。
いかに屈強な薩摩藩士達といえど、この頃の日本人は小柄で小さいでしょうし「このイエローモンキーが」と侮っていたのかなと想像してしまいます。
結果、薩英戦争で艦隊に損害を与えるほど戦った薩摩藩はイギリス軍事力を目の当たりにし、イギリスと手を組み攘夷から倒幕の流れにつながるわけです。
このような事から外交は主張すべきものは主張しなければいけないんだなと強く思いました。
歩いているとこんな事を考えていたりします(笑)
国道との合流部にはキリンビールの工場があります、ここのレストランで食事をすると色々なビールが飲めるそうです。
ここ横浜はキリンビール発祥の地でもともとは横浜の山手にノルウェー系アメリカ人が設立したスプリングブルワリーという会社が起源だそうです。
山手というと港が見えるヶ丘公園とか外人墓地のあたりでしょうか、ここからは少し離れていますね。
生麦と麦がつく地名だからビールっぽいですが(笑)ここが発祥ではないようです。
見学等には予約が必要なようで時間が無いのでスルーしました。
ちなみにこの国道近くのガソリンスタンドには八潮二中ラグビー部の同級生が働いており、久しぶりに会うことができました。
突然訪れた事と川崎から歩いてきた事を驚かれました。
この辺りは川崎駅から5kmを過ぎた地点、足の指を意識していたので右足の母指関節が痛くなります。意識しすぎたか…ここからなるべく他の4指も意識しながら歩きます。この時点では他の部位はトラブルはありません。
ビール工場から神奈川宿までは国道15号線を歩きます、歩道が広いので歩きやすいのですが2車線の幹線道路ということで車がビュンビュン走っているので空気が悪いし江戸情緒もありません。国道整備や都市化によりここから神奈川宿までは旧街道はほとんど消えておりあっても断片的になっています。できるだけ旧街道を歩くように努めましたが飛ばしてしまったところもありました。
JRと京急の新子安駅の付近に菊屋という老舗らしい今川焼のお店が…関東の人は今川焼で通じますが、これ実は地域によって結構呼び名があるんですよね。所説ありますが、東北、東海、四国地方では大判焼き、関西九州では回転焼き、東北の一部地域ではおやき、広島では二十焼きという名前もあり、その他にもお店によって無数の呼び名があるそうです。埼玉生まれ埼玉育ちの渡しは今川焼、大判焼きと呼んでました。ちなみに今川焼の由来は江戸時代中期ごろ神田今川橋のたもとで桶狭間の戦いをもじって販売していた和菓子屋があったとか。
中に入るとかなりレトロ、カウンター内で置物のような老婆が新聞を読んでおり来店した私に気づいていないので奥にいた男性に注文支払いしました。あずき入り120円を購入し椅子があったので中で食べさせてもらいました。味は普通、ちょっと焼きが甘いのか生地が半生のような感じがしました。でも120円で休憩させてもらっているので文句はありません。食べていると老婆と目があい「いらっしゃいませ」と言ってくれました(笑)やっと気づいてくれたようです。この地で長く商いを続けている感じなのでこれからも頑張ってもらいたいものです。
菊屋を出て少し歩くと船溜まりがあります、良い天気で良い雰囲気です。ここはもう港のすぐ近くなのです。
京急線神奈川新町駅の辺りで国道にかかかる歩道橋を海側から鉄道が通る陸側に渡ります。裏の道に入ると横浜市立神奈川小学校の壁に神奈川宿の絵があります、日本橋をでて3番目の宿場町神奈川宿に到着したようです。この辺りはJR京急線の東神奈川駅があります。大学時代JR横浜線を使っていたので東神奈川行きというと懐かしい気持ちになります。
神奈川県の人に「出身はどこですか?」と聞くと、横浜、川崎、横須賀、藤沢、茅ケ崎等地名で言う事が多いと感じます。
私は大学が町田というほぼ神奈川に突っ込んだ地域だったので多数の神奈川県民と出会ったのですが、皆一様に地元愛が強いと感じました。ですが、神奈川が県名なのには由来があり、横浜は昔は小さい漁村に過ぎず陸側の街道沿い神奈川宿が栄えておりました現在の横浜駅の辺りは昔は海の中、ですが巨大船が行きかうようになる幕末では遠浅の江戸までは大きい船は入れなかったので良港である横浜が栄えました。現在は横浜駅、桜木町、みなとみらいの辺りが栄えていますがかつてはほとんど海だったんですね。
横浜駅が陸になったのは鉄道を通す際に陸地側に土地がなかったので埋め立てて線路を通したそうです。現在横浜が栄えているのは海運と鉄道のおかげなんですね。それでも神奈川が県名になったのは後に出てくる各国の領事館も多数神奈川宿にあり政治の中心であったからだと考えられます。今は海底を掘る浚渫や埋め立てのおかげで東京湾深くまで大型船が入れるようになりました。
行ってみると神奈川宿も歴史的にも素晴らしいところなので神奈川県民にも出身は神奈川ですと、言ってもらいたいと思いました