鍼灸整骨院あおてあ|八潮市大瀬

平日夜九時まで、土日祝日営業 肩こり、腰痛、自律神経の乱れ、更年期障害、頭痛等でお悩みの方、交通事故に遭った方が多数来所。八潮駅徒歩10分駐車場完備


テーマ: 東海道五十三次の旅

前の記事 東海道を歩く 1日目 日本橋~品川宿

プロ野球ドラフト会議が行われるグランドプリンスホテル新高輪を右手に見ながら国道15号線を御殿山に向かって緩い上り坂を歩く。

私は18歳そこそこの若者の就職先をクジで決められそれがテレビ中継されエンタメになっているはなかなかすごいことだと思ってます。

指名を外れた選手や家族にカメラを向けるというのは私には理解できません。

映画グラディエーターにもあるように、古代ローマでは人と人の殺し合いが娯楽であったので人間は残酷なものが好きなのかもしれません。

そんな事を思いながら緩い坂道を上ると、八つ山橋に出ました。

ここは橋の下には東海道線、山手線、京浜東北線等たくさんのJRの電車が走っており鉄道マニアにはたまらない場所であります。

日本鉄道発祥の地でもあり、明治五年品川-横浜間の日本で初めての鉄道が開通しました。当時の品川駅はこの橋のすぐ北側にあったそうです。

品川踏切

 

 

 

 

 

 

 

 

橋を渡ると京急線の踏切があります、ここは開かずの踏切だそうで無理に渡ろうとする輩もいるのか警察官が待機しております。

一本道を間違えたので国道15号線まで戻りました。

品川宿入り口品川石碑53次

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地下道の出入り口は江戸時代っぽい作り、花壇の石碑には品川宿から順に五十三次の宿場が書いてありました。ここから緩い下り坂になっておりこのあたりが浮世絵の場所と思われます。この右側にある丘は御殿山と呼ばれ一作目のゴジラが上陸した場所だそうです。日本橋をでて東海道1番目の宿場町品川宿に到着です。

品川宿 浮世絵

東海道五十三次之内 品川 日之出 – 歌川広重 – 日本画 – 名画 – Canon Creative Parkより出典

下っていく様子が描かれています。海っぺりの街並みを見ると今はだいぶ埋め立てられたのだという事がわかります。

 

 

 

 

 

踏切

品川宿奴山口

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらが旧東海道踏切、右側に京急線北品川駅が見えます。品川駅より南にあるのに北品川なのは先ほど記述した通り品川駅が港区にあることに理由があります。京急線の方が地名に忠実ということですね。

品川宿①

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

品川宿は全長約4キロの長い宿場町です、京急線の新馬場駅、青物横丁駅、鮫洲駅、立会川駅に沿っているので、商店街も全盛期ほどではないようですが近くに住む人々の台所としてまだまだ活気がある場所もあります。当時の街道の幅そのままだそうです、現在の大型車サイズの乗り物なんかもないでしょうしこの広さで十分だったんでしょう。

さすが首都東京、電線もなく石畳にするなど旧東海道の当時の面影を残そうという努力が垣間見えます。

品川宿③

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ペリー来航に備えた大砲を設置する台場につながる横丁の説明書きがあり。台場とは現在のお台場ではなく品川沖に来た黒船に対抗するために作ったもの、現在は台場小学校という学校になっており運河の向こう側には天王洲アイル等がある陸地があります。

品川宿⑥

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

江戸時代の品川宿は宿や茶屋だけでなく、宿場女郎や飯盛女と呼ばれる給仕兼売春婦のような人たちがおり一大歓楽街であったようです。

今のようにホストやアイドルの推し活の為にパパ活をして身体を売るわけではなく、農村から買われて来て男たちの相手をさせられていた人たちもたくさんいたんでしょうね。※現代にもやむを得ない理由の為に身体を売らなければいけない事情がある人もいるかもしれませんが…

武士の家、商人の家、農家の家に生まれても長男であれば跡継ぎ、それ以外なら養子や奉公人として出されたり売られたり、どの身分でも職業選択の自由や、やりがいの為に仕事をする事や、自分らしく生きるとか余計な事を考える暇も無かったはずです。

それを不幸と思っていたのかいなかったのかは当時に戻って本人達に聞いてみないとわからないかもしれませんが、皆懸命に生きていたんでしょうね。

品川宿⑦品川宿⑧

 

 

 

 

 

 

 

 

創業が明治時代のお店や、見るからに古いお店も多いです。畳屋さんも何件かあり、お寺がたくさんあるから成り立っているのかなとも思いました。

品川宿⑩

 

 

 

 

 

 

 

本陣跡、現在は聖跡公園という公園になっており明治天皇も訪れたそうです。本陣は大名など身分が高い人しか泊まれない宿でした。お金持ちは食事がつく旅籠、庶民は素泊まりのみの木賃宿に宿泊したそうです。

品川宿⑪ 品川宿ガイド

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その先には無料のお休み処がありました。中に入ると左側のカウンターに高齢の女性が座っておりました、周りには駄菓子が販売されておりました。こちらから挨拶をするも無言、おもむろにマスクをつけ始め歓迎されていない様子。日本人は他人が嫌がる事はしない事を美徳としている為、品川宿のパンフレットだけいただき即その場を離れました。たまたま機嫌が悪かったのか、声が小さすぎて私には聞こえなかったのかもしれません。

品川宿⑫ 品川宿⑯気を取り直して品川橋を渡ると

 

 

 

 

 

 

 

品川宿⑭ 品川宿⑱

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

和風装飾の城南信用金庫と向かいにはまたもや観光案内所があります。

品川宿⑮

 

 

 

 

 

 

 

その先には和風モダン建築の城南小学校が…

品川区は財政が豊かな自治体であるとつくづく感じますね。

高級旅館のような佇まい、未来を担う子供たちにお金をかけるのは正しい選択ですね。

ここから青物横丁駅を過ぎ、城南地区の免許センターがある鮫洲駅を通過すると商店も少なくなります。

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立会川にかかる浜川橋、別名涙橋と呼ばれます。なみだ橋というと漫画あしたのジョーの舞台となった南千住駅のそばにもありますね。そちらは泪橋と書きますが成りたちは似ているようです。

この先に鈴ヶ森の処刑場があり罪人は江戸から処刑場まで馬で運ばれる際に、密かに親族が見送りに来てこの橋のたもとで涙したそうです。

品川宿㉕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宿場の南側のはずれには鈴ヶ森の処刑場があります、明治4年に廃止されるまで稼働していたそうです。大経寺というお寺が併設しております。江戸の南の玄関口鈴ヶ森に処刑場を置くことで、江戸に入ってくる人々に生首を並べたり磔で殺された罪人達を並べる事により「江戸で悪さをするとこうなるぞ」と見せつけていたそうです。先ほどお伝えした泪橋がある日光街道奥州街道の江戸の北の玄関口千住宿にほど近い現在の南千住にも小塚原処刑場があり回向院というお寺がありますね。あちらも罪人だけではなく病気等で亡くなった吉原の遊女達など身寄りがない方々が葬られた投げ込み寺とも呼ばれていたそうですが、こちらも似たような機能を果たしていたと考えられます。つくばエクスプレスを建設していた時は南千住駅付近では掘ると骨がゴロゴロでてきたという話もあります。コツ通りと呼ばれる通りもありあの辺りは昼間にいってもうすら寒い感じがしますね。

品川宿㉔ 品川宿㉒ 品川宿㉑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真にあるくぼみに柱を立て、そこに縛り付けられブスブス刺されて刺殺されたり火あぶりにされたそうです。

真ん中の写真は首洗いの井戸、処刑したあとの首を洗った井戸だそうです。井戸水は海水だそうです。

個人的には火あぶりはきつそうなので心臓や頭を一思いにやってもらいたいです。

もちろんどちらも嫌ですが。

こういう皆に見せしめて犯罪の抑止効果を図るというのは割と良い方法なのではないかと私は思っています。

現代の火あぶりは物理的に燃やされることではなく、悪さをするとX旧ツイッターなどインターネットで炎上し見せしめにされることではないでしょうか?違法な事や変な事はしないようにしようという気持ちが生まれこれも抑止力になっていると思います。もちろんフェイクニュース等もありますのでそれらには気を付けねばなりません、今も昔も冤罪を無くすことはなかなか難しいですが…

品川宿㉓ 品川宿⑳

 

 

 

 

 

 

 

 

とんでもない罪人も多数処刑されたのでしょうが、中にはいわれのない罪に問われ殺されてしまった方も少なくなかったんでしょうね。どちらも死ねば仏という事で安らかにと50円支払いお線香をあげさせていただきました。※金額はうろ覚えです。

鈴ヶ森

お線香の隣にこのような冊子があったので購入、確か200円か250円だったと思われます。

ここを訪れたのは15時15分、日本橋を出て3時間以上経過しました。左足のマメが大きくなり歩く度に痛みが走ります、足の指が使えていないんですね。ここから意識して指を使い横アーチを作りマメに当たらないように歩きます。

ここからは再び国道15号線と合流します。学校帰りの小中学生とすれ違います、皆元気です。

 

 

 

 

 

 

 

大森

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左手にしながわ水族館、右手に大森海岸駅それを過ぎると左手に平和島競艇場があります。

現在の娯楽施設は品川宿の南側に位置しているようです。

それをすぎると再び旧東海道、美原通りに入ります。大森は恐らく品川宿と川崎宿の間の宿であったのではないかと思います。

間の宿(あいのしゅく)とは旅人が休める茶屋等がある町で基本的に宿泊はできなかったそうです。

大森②

 

 

 

 

 

 

 

美原通りについての説明があります。

大正時代以降、国道整備の際は人家が密集していたのでそれを避けて作られたそうです。

旧道が現在も残るのはそういった理由なんですね。

大森④大森⑥

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かつて大森、羽田一帯は日本一の海苔の生産地だったので海苔問屋さんが多いです。関東大震災以降大型船を東京湾に入港させるために掘削、埋め立てが必要になり、東京オリンピック前の昭和37年にすべての漁業権を放棄し江戸中期から続いたこの近辺での海苔の養殖は翌38年の収穫を最後に幕を閉じたという歴史があります。

ですが海苔養殖や生産の技術はここから全国に広まったと言われており、今も技術の継承は続いているそうです。現在は海苔問屋だけが残され、お世話になっている人に愛知産、佐賀産の海苔を購入しました。しばらく歩くと大森警察署前で再び国道15号線と合流

この辺りでは右大腿四頭筋外側頭が痛くなってきます。

 

 

 

六郷橋手前セブンイレブン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京急蒲田駅を通過この辺りは歩道がとても広いので歩きやすいのですが足に激痛が走るためとてもつらかった区間です。

雑色駅の手前にあったセブンイレブンでトイレ休憩かりんとう饅頭とお茶を購入。

品川駅以来久々に腰を掛けました。

糖質を入れると元気がでます、六郷の渡しまであと少し。時刻は16時30分

六郷橋① 六郷橋②

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

六郷神社を過ぎると六郷橋に向かう車道と、旧道の側道にわかれます。

その先の階段を上ると…

六郷橋③ 六郷橋④

 

 

 

 

 

 

 

 

やっと多摩川に到着

かつては橋を架けても流されてしまうため、大正時代の六郷橋ができるまでは渡し舟による渡河が一般的だったそうです。

“出典 東海道五十三次之内 川崎 六郷渡舟 – 歌川広重 – 日本画 – 名画 – Canon Creative Park川崎宿浮世絵

 

 

 

 

 

 

六郷橋⑥神奈川県川崎市に到着

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

六郷橋⑧ 六郷橋⑩

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

対岸には明治天皇が渡ったという記念碑と常夜灯のレプリカがありました。

階段を降り国道をくぐると旧東海道にでます。

川崎宿② 川崎宿① 川崎宿③

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川崎宿も電柱が無く石畳風の歩道になっております。

川崎宿⑥ 川崎宿④

 

 

 

 

 

 

 

 

少し歩くと右側に本陣跡があり、現在はマンションになっておりました。現代の高級籠、欧州外車が二台停まっておりました。

町人風情が乗れる籠ではないですね。今も昔も本陣に滞在できる人間は身分が高い方のようです。

川崎宿⑤

 

 

 

 

 

 

 

川崎宿にも品川宿と同じような施設がありましたが、この後の用事に間に合わない為スルー

川崎駅① 川崎駅

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

17時30分川崎駅に到着、帰宅ラッシュの時間帯なのでグリーン券を購入、上野東京ライン高崎行だったため上野で常磐線に乗り換えて北千住まで快適に乗車できました。

一日目地図②

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当日の徒歩の移動距離25.08km 歩数35,838歩

電車賃1,990円 八潮-日本橋 川崎-亀有 グリーン券含む

深夜バス462円 亀有駅-八潮駅

飲み物軽食代 504円

かきあげそば 420円

お線香代、小冊子 250円

お土産(海苔)1,280円

合計4,906円

両さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川崎駅から亀有駅までは1時間ほど、昔の人からは考えられないスピードです。

ちなみに江戸時代の人は初日に戸塚宿を目指したそうです、距離にして40km!私の倍歩く計算になります。

箱根駅伝の1区、川崎の先にある鶴見中継所までは1時間ほどで走ってしまうそうです。

まあ昔の人も、駅伝ランナーも私の体重の半分なんですけどね…と言い訳。

ちなみに、この後佐藤義人先生のセミナーがあり。右大腿外側が痛くなる原因はつま先が外を向いていることが原因と判明。

がに股気味に歩いているからなんですね。次回は修正して挑みたいと思います。

次は恐らく11月の最終週か12月になりそうです。

次の記事 東海道を歩く③ 2日目 川崎宿~神奈川宿 

 

 

 

 

 

 


テーマ: 東海道五十三次の旅

いよいよ初日、東海道行脚スタートです。

9時に起床、当日までどうしようか迷っていましたがこれを逃すと最低一か月は先になってしまうのと秋とは思えない温暖な気候だったこともあり出発を決めました。

初日という事もあり目的地は品川宿、行ければ川崎宿まで行きたいと思い電車を乗り継いで東西線、銀座線の日本橋駅へ

リニューアルされており木目調の和風なデザインが良い感じです。

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銀座線は日本で一番最初の地下鉄という事もあり天井が低いです。

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日本橋を渡っていざ出発、長い旅の始まりです。

国道15号線を銀座方面に向かいます。

三越本店側から見た日本橋、三越(旧越後屋)は1673年創業というから驚きです。

ワタクシはデパ地下部分くらいにしか用はなさそうです。

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出典 東海道五十三次之内 日本橋 朝之景 – 歌川広重 – 日本画 – 名画 – Canon Creative Park

浮世絵の日本橋は写真とは反対側から見た図ですね、朝木戸が開き大名行列が旅立つところと魚河岸から仕入れた魚を売りにいく行商人だそうです。

昔は日本橋の北岸には魚市場があったんですね。

ちょうど昼の12時とあってランチを食べに行くサラリーマンたちがたくさんいました。

ビルケンのサンダルでリュック姿の私は完全に浮いております。

首都高速についている日本橋の文字は最後の将軍徳川慶喜が書いたものだそうです。

道路原票日本道路元票

江戸時代は五街道、現在は七つの国道の起点となります。本来の元票は車道にあるそうです。

 

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橋の上から見た日本橋川

2035年から首都高の地下化工事が始まり、2040年には高架の撤去も完了するそうです。

ある意味いまの状態を見るのも貴重な体験かもしれません。

看板

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西川ふとんがあったビルが建て替えしておりました、昔の日本橋の写真が工事現場の外壁に描かれており中々興味深いです。

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コレド日本橋室町があります、日本橋界隈は三井グループですね。三越も三井グループのルーツだそうです。

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少し歩くと右側に東京駅八重洲口が見えます。

向こう側のビル群は三菱地所など三菱系列となります。丸の内は三菱村とも呼ばれますね。

京橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少し歩くとまた首都高速の高架が、下には京橋の一部が残されております。

かつてはこの下に京橋川という川が流れており、日本橋を出て京都に向かうのに一番最初の橋が京橋であったそうです。

江戸は水運が盛んでこのような川が何本もありました。

物流の主役が舟から自動車の時代になり1954年昭和34年に首都高設置のため埋め立てられたそうです。

たもとに警察博物館がありとても興味が惹かれましたが時間がいくらあっても足りないので通過。

後日訪れよう。

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銀座交差点 銀座は読んで字のごとく貨幣の鋳造と銀地金の売買を行っていた場所で、日本で一番地価が高い場所と言われています。

銀座役所は現在のティファニー銀座本店がある場所だそうです。この辺りは欧米や東南アジアからと思われる観光客がたくさんいました。

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銀座を過ぎると人通りも少なくなります、そして再び高架が現れます。

ここも京橋と同じ時期に汐留川が埋め立てられ役目を終えた新橋。

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新橋駅に到着

新幹線がひっきりなしに通過します、これに乗れば現代では二時間半で京都に到着できるわけです。

自動販売機

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コンビニと並ぶ現代の茶屋、自動販売機。私のような貧しい町民には嬉しい100円のノーブランドのスポーツドリンクを購入

増上寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大門の交差点、右手には増上寺が見えます。

私が尊敬する安倍晋三元首相など数々の著名人の葬儀が行われた歴史ある寺院です。

その奥には六本木ヒルズが…現代の天守閣ですね。

かつては若手のIT長者達がこぞって住んでおりましたが今はどうなのでしょう?

ワインを持ちながら「見たまえ人が虫のようだ」と我々を上から見下ろしている身分が高い方がいるのかもしれません。

資本主義社会は見えない身分が存在するのです、でも私はそれをネガティブにはとらえていませんが…

頑張って努力した人間が豊かになるのはある意味正しい姿だと思います。

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現在マイナス2kgで体重計を表示しているというジムを発見。

何か合理的な理由があるのか考えましたが脳に糖質が不足しているのか理由は不明。

誰か教えてください。

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浜松町駅を過ぎると金杉橋が、東京湾竹芝ふ頭にそそぐ古川にかかっております。

屋形船が係留されておりました。

月鳥

 

 

 

 

 

 

 

直前にあまりおいしくないそばを食べてしまったので食べられませんでしたが。

文政8年1825年創業の鶏料理のお店が!お弁当もあったのでここで食べればよかった…

西郷さんも食べたのでしょうか?

今度改めて訪れたいと思います。

お蕎麦屋さんは少し酸っぱい味がしたのと少しおなかを壊したので※因果関係は不明

営業妨害にもなるので掲載はやめます。

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田町駅の近くまでくるとこんな石碑が…

薩摩藩の蔵屋敷があったところで現在は近代的なビルが建っております。

幕末に西郷隆盛と勝海舟が会談し江戸の住民を戦いから守るため江戸城無血開城を取り決めた場所だそうで。

小説やドラマ、映画でもよく出てくる場所ですね。

都内はこういったものがシレっとあります、車や電車で移動していると見逃してしまうものを発見できるのも徒歩旅の醍醐味かもしれません。

高輪大木戸

 

 

 

 

 

 

 

しばらく歩くと都営浅草線の泉岳寺駅の脇に高輪大木戸跡が…

左側には2020年に開業した高輪ゲートウェイ駅の周りの大規模なビル建設が行われております。

大木戸は街道筋にある簡易的な関所で夜間は閉められ江戸の安全を守っていたわけです。

isigaki大木戸 大木戸後説明

 

 

 

 

 

 

 

 

漫画藤枝梅安でも木戸番の男が出てくる回がありました。

梅安先生の鍼灸院はここから品川台町なのでまさに漫画小説の舞台なのです。

高輪ゲートウェイ駅の駅名由来はこの高輪大木戸だそうで、そのまま高輪大木戸駅でもよかったのではと個人的には思います。

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国道15号沿いにはこのようにビルの間に神社仏閣が多数あり、とても古いお店なども点在します。

このことから、とても歴史がある街道なのだと感じることができます。

品川駅

 

 

 

 

 

 

 

やっと品川駅に到着。

品川駅がある場所は港区で品川宿があった場所はもう少し南側になります。

駅の向こうの高層ビル群は昔は海だったそうです。

ここまで10kmほど、左足の中央部にマメができました。

日本橋を発ってからちょうど2時間

トイレ休憩をして先に進みます。

一日目地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次の記事、東海道を歩く②1日目 品川宿~川崎宿

 

何故東海道を歩くのか

 


テーマ: 東海道五十三次の旅

2023年10月31日火曜日より東海道を徒歩で踏破するという試みを始めました。

理由はいくつかあり

一つ目の理由は、正しい歩き方をトレーニングしたいということ。

ラグビー日本代表トレーナー佐藤義人先生のセミナーsato trainer’s academyを受講した際にフォアフットという歩き方を教えていただきました。

現代起こる様々な足回りを始めとした不調、巻き爪、外反母趾、膝痛、股関節痛、腰痛等は歩き方が原因の事も少なくないのでこれらを防ぐ為、患者さんに指導できるようになるためということもあります。

さらに正しい歩き方を習得するとパフォーマンスも上がるのです。

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峠越えやサンダルとの違いを実感するために靴を使うこともありますが、基本的にはビルケンシュトックのサンダルで挑戦。

佐藤先生はサンダルで24時間徒歩で歩き続けるというトレーニングを何度もしているそうで…ラグビー日本代表の堀江選手、松田選手もフランスワールドカップの前年行ったそうです。実際やっているとこれがいかに大変なことか実感できると思います。

歩くことにより自らを鍛え、歩き方のエラーを痛みで知り身体の仕組み、正しい歩き方を模索していくことが目的です。

ダイエット、メタボ対策というのもあります(笑)

 

もう一つの理由は、私自身の学びのため。

私はあまり学生時代勉強しなかったというのもあるのですが…平和主義の私は人気がある戦国時代の事等はほとんど興味がなく平和な江戸時代や欧米と折衝して近代国家の礎となった現代につながる幕末の歴史の方が好きなんですね。※まあ幕末もかなり戦争してますが…

恥ずかしながら今も歴史はほとんど詳しくないのですが、特に戦国時代以前の事はあまりよくわかっていません。

それらを含めて歩きながら学んでいければよいと思っています。

池波正太郎などの時代小説等にも出てくるように東海道は1601年から徳川家康が整備した五街道の一つ(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)江戸幕府は日本橋京都間に53の宿場を設け、ご存じの通りこれが東海道五十三次の名称の由来となっております。

東海道は家康が整備する遥か昔から東西交通の要となっていたそうで。

大衆はもちろん、戦国時代の武将達、江戸時代の参勤交代の大名行列や幕末の志士達、埼玉の偉人渋沢栄一等、歴史を彩った様々な人々が往来していたと思うとなかなかロマンがあります。

東海道で京都、大阪まで行くというと現代ではまず浮かぶのは東海道新幹線、あとは東名高速道路を経て車やバスで行く。

もしくは、羽田や成田から大阪伊丹空港、関西国際空港まで行く今の常識的な移動ではないでしょうか?

私は現代では当たり前の東京ー大阪間の交通機関はほぼ利用したことがあります。

変わり種としては若い頃、お金が無かった私は大学の同級生の結婚式が三重県四日市市であった為、青春18きっぷを使い普通列車で四日市まで行き、翌日大阪でサラリーマン時代の同僚と会いランチしたあと普通列車を乗り継いで東京まで帰ったこともあります。

あとはサラリーマン時代名古屋出張の際に今は無き夜行列車ムーンライトながらを利用し夜通し東京まで帰ったりと東海道線には色々な思い出があります。

電車

弊所待合に飾っている鉄道模型

これは並走している部分もある横須賀線カラーですね、東海道線は緑とオレンジになります。

 

もう一つの理由は、日本をちゃんと見てみたいということ。

私は今年フランス、スペインを旅行し、昨年はアメリカカリフォルニアを旅行。

年に一度程度の海外ですので旅好きというにはおこがましいですが、一般の方よりは旅をしている方だと思います。

海外旅行好きにはあるあるかもしれませんが…そういう旅行に行くと他人によく言われるのが「日本もまだ行ってない所がいっぱいあるよな」ということ。

言ってる人は悪気はないのは百も承知ですが…特に海外旅行に行ったことが無い人なんか言いがちですね。(笑)

なのでそういう人に「国内も結構行ってて旧東海道を踏破しましたよ」とマウントを取りたい言わば虚栄心というやつです。

私が好きな鉄道系、旅行系ユーチューバースーツさんの東海道電動アシスト自転車の旅の影響もかなりあります。

言い回しなど言ってみればパクリいや、インスパイア系劣化版という事でご容赦ください。

実際、日本も行っていないところがたくさんあるのでこれを機に色々見てきたいと思います。

 

江戸時代の人々は14日程度で京都まで歩いたそうですが、整骨院の営業があるので全行程続けて歩くことは困難ですので休みを使って時には一泊二泊の行程を経てその都度八潮に戻り月1~2回のペースで2024年中には完歩したいと思っております。

ライトな鉄道好きなので帰りは電車や新幹線を利用したり、少し変わった方法で帰京したりもしようと思います。

 

その都度、身体に関して変化した事、感じた事、そこで見た様々な事を当ホームページで発信していきたいと思いますので興味があればご覧ください。

 

 

次の記事 東海道を歩く 1日目 日本橋~品川宿

 

 

 


テーマ: 整骨院関係

11月は勉強会参加の為、週末の臨時休業日が続きます。

ご迷惑をおかけし申し訳ございません、何卒宜しくお願い致します。

 

karenda

カレンダーの赤丸が休業日となります、28日以外の火曜日は臨時営業致しますので是非ご利用ください。