東神奈川駅を左手に先に進むと、松並木があります。旧東海道にはかつて松並木が植えられているところが多かったらしくそれを再現しているようです。
とても美しいですね。
左手には神奈川地区センターという図書室、会議室、体育館がある公共施設がありその一角に高札場※おそらくレプリカがあります。
高札場は幕府が掟や法度、現在でいう法律などを示していたそうです。「徒党禁止」農民一揆や武士の徒党いわゆるクーデターのようなものでしょうか?それらも禁止され治安維持に努めていたんですね。川崎宿や品川宿の公定運賃が書かれていたりもしたそうです、何の運賃かはよくわかりませんが恐らく飛脚に託す手紙や籠代でしょうかね。外国人が入ってきていたので切支丹禁制(キリスト教)もあったそうです。日本の現代の価値観で見ると、信仰の自由だろ!と思いそうですが、キリスト教やイスラム教は他の神を認めない一神教なので戦いが起こりやすいんですよね。現在も宗教戦争が発端になった争いが絶えません。日本人は神道がベースにあるのでいたる所に神様がいるというのが根底にあるため、様々な宗教を受け入れる土壌があるのですが一神教の神と神道の神を同列に扱ってしまうと危険だと常々思っております。それを江戸時代の人が恐れて禁制にしてたと考えるとかなり頭が良い見識がある人が幕府にいたのだと感心させられます。ただよくわかんないから禁止にしてた可能性もありますが。なんにせよ日本の神様をgodと訳してしまうのは誤りなのだと小林よしのり先生の本に書いてあったことを思い出しました。
先に進むと外国人宣教者宿舎跡の碑があったり、左側には石井本陣があった滝の川公園がありそこに明治天皇行在所の積というのがあります。川崎の六郷の渡しのところにもありましたが明治天皇が京都から東京に向かう際にこの石井本陣に宿泊したそうです。明治天皇が訪れた場所を聖蹟として残す動きは昭和に入って各地で起こったそうです。聖蹟とはそういう意味だったんですね。京王線にも聖蹟桜ヶ丘駅という名前の駅もあります。土橋を渡る際に強風が吹き始め落ち葉が舞っておりました、それをみた高齢の男性が私に声をかけてきましたが何を言ってるのかわからなかったのでとりあえず「すごい風ですね」と笑顔で答えておきました。
土橋を渡ると左手にもう一つの本陣跡、右手にはイギリス領事館が置かれた浄瀧寺があります。開港すると外国人が多数訪れるようになったのでとりあえずお寺を領事館として使ってもらうことが多かったそうです。生麦事件の時は生き残ったイギリス人3人はこのイギリス領事館ではなくこの先にあるアメリカ領事館に逃げ込んだそうですが何故手前の自国の領事館に行かなかったのか謎です。
この辺りは住宅街ですが坂道が増えてきます。旧街道を須崎大神前を抜けます。
時間は11時半、おいしそうな洋食屋さんがランチを始めておりましたが今川焼を食べたのであまりおなかが空いてなかったので先を急ぎます。
旧街道を右に曲がり坂道を上ると京急線神奈川駅に到着しました。
神奈川駅から線路を挟んで向こう側に見えるのが本覚寺かつてアメリカ領事館があったお寺です。
下の話で申し訳ないですがかつて外国人はどうやって用を足してたんですかね、日本式の汲み取り式の厠(トイレ)にしゃがんで行っていたのでしょうか?
橋の反対側から見た神奈川駅、ちょっと和風で江戸時代っぽくしてくれているのだと思います。
鉄道は坂道に弱いので丘を切り開いて鉄道を通したのだという事がわかります、かつての神奈川駅は現在の場所ではなく今の横浜駅よりのところにあったそうです。
ここから少し横浜駅の方に下り駅のかなり手前を右に曲がると旧東海道にでます。
.東海道五十三次之内 神奈川 台之景 – 歌川広重 – 日本画 – 名画 – Canon Creative Parkより出典
浮世絵はこの辺りだと思われます、現代では写真左側の奥は横浜駅があります。
海を埋め立てて線路を通したんですね、ちなみに外国人居留地は現在横浜スタジアムの近くの関内にあったそうです。
この手前にはかつて東急東横線が通っていた線路跡が遊歩道として整備されておりました。
金刀比羅神社と一里塚の跡があったり
看板の写真ばかりで申し訳ありません、もっと神社など写真を撮ればよかった。
こちらが横浜駅方面の写真
こちらは料亭滝川さん、昭和22年開業なので割と新しめ。まあ普通に考えたら老舗なんですが…街道ウォークをしているとか感覚がおかしくなります。
そしてこちらが神奈川宿当時から続く料亭田中家さん、なんと創業文久三年1863年高杉晋作やタウンゼントハリスも訪れたとか…
ハリスって名前は聞いたことがありますが私は良く知りませんでした、なんでも初代の駐日アメリカ領事だったそうな。
そしてこちらはには竜馬の妻であったおりょうが働いていたこともあったとか。
勝海舟の紹介で働き始めたそうです。
月琴がひけて英語が話せたので外国人の接待に重宝されていたと書いてあります。
このおりょう竜馬の死後、竜馬の土佐の実家に身を寄せるも折り合いが悪く一年ほどで京に戻りそのあと関東に来て酒に溺れて妾になったりしながら横須賀で寂しい生涯を終えたそうです。
京都の医師の家に生まれたので育ちは良かったようで楽器を弾いたり、茶道、生け花などに親しんだそうですが家事等が全然できなかったと…父が安政の大獄で捉えられてしまいそれから旅館で働きだしたとのことなので、まあ田舎の家に入っても邪魔者扱いされるでしょうし、京の都会に生まれた本人も田舎の生活なんて嫌だったでしょうね。
なのでこちらには横須賀に移る前に働いてたと思われます。
竜馬については司馬遼太郎の小説「竜馬がいく」のイメージが一般的になっております。私は武田鉄矢さん原作の漫画「おーい竜馬」を読んだのですごい人だなあと思っていたのですが、実際は剣術も微妙だし日本史にも大した影響は与えていない言う人もいたりネットでは様々な議論がなされております。
大河ドラマや小説等、創作の部分はあるのかもしれません。でも高知県では空港の名前になったり駅前には巨大な銅像があったり地元でも愛されている感じはしますね。
私は幕末では仲間に嫌われながらも汚れ役を買って未来の日本の為に働いた長州の桂小五郎や薩摩の大久保利通のが好きです。
歴史は勝者が作るので彼らも実際どういう人間だったかは厳密にはその当時に戻ってみないとわかりませんね(笑)立場によっても見方も変わりますし。
本当に詳しい方から見たら「それは違う!」と怒られてしまうかもしれませんので、あくまでも個人の戯言だと思ってください。
その先には神奈川台関門跡を通過するとここから下り坂になります。
山側には素敵な住宅街と高そうなマンションが並びます。豪邸もありましたね~
歩いていくと旧街道から環状一号線に合流、この辺りは軽井沢という地名なんですね。軽井沢というと長野県の避暑地を思い浮かべますが横浜にも軽井沢があったとは。
調べてみると長野の軽井沢とは関係がないが、目の前の埋め立て地に水が流れてしまうので沢が枯れてしまうので枯れ沢と呼ばれそれをもじって軽井沢と名付けた説が濃厚みたいです。※諸説あるそうです。
環状一号線の歩道橋からランドマークタワーが見えます、歩道橋を渡ると旧東海道が復活。右側の崖上に浅間神社があるそうです。
しばらくなんの面白みもない住宅街を歩きます。※地元の方すみません
しばらく行くと追分があります。分かれ道ですね、右側に行くと八王子街道です。神奈川往還ともいわれるそうです。
現在の大和市、相模原市を経て八王子市までの道です。
八王子は養蚕業が盛んだったので絹が港まで運ばれていたんでしょうねぇ
その先には松原商店街があります、ちょうどお昼時結構にぎわっています。こんなに賑わっている商店街令和の時代にそんなにないと思います。
商店街ソングがゆる~く流れていて良い感じです。
買い物客の間を縫って歩いていくと相鉄線天王町駅に到着。
スマホの充電もしたかったのでモスバーガーでランチ、堀江貴文さんが「和牛の安売りやめてほしい」と訴えている和牛バーガーセットを注文。
堀江さんのおかげで良い宣伝になっていると思います(笑)堀江さんは和牛のブランドを世界に売り出すために真剣に頑張っている方なので笑ってはいけませんが。
ハンバーガーはおいしかったです。充電もあったので30分ほどかけてゆっくり食べました、令和の旅は充電が大切です。
念のため、アンカーのモバイルバッテリーは携帯しています。
YouTubeやってよと言ってくださる方もいるのですが、カメラのバッテリー等持ちながら歩くのは結構大変なんですよね。
編集も大変なのでブログでご容赦ください。
食べ終わり駅の高架を抜けると東海道第4番目の宿場町程ヶ谷宿に到着です。
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