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プロ野球ドラフト会議が行われるグランドプリンスホテル新高輪を右手に見ながら国道15号線を御殿山に向かって緩い上り坂を歩く。
私は18歳そこそこの若者の就職先をクジで決められそれがテレビ中継されエンタメになっているはなかなかすごいことだと思ってます。
指名を外れた選手や家族にカメラを向けるというのは私には理解できません。
映画グラディエーターにもあるように、古代ローマでは人と人の殺し合いが娯楽であったので人間は残酷なものが好きなのかもしれません。
そんな事を思いながら緩い坂道を上ると、八つ山橋に出ました。
ここは橋の下には東海道線、山手線、京浜東北線等たくさんのJRの電車が走っており鉄道マニアにはたまらない場所であります。
日本鉄道発祥の地でもあり、明治五年品川-横浜間の日本で初めての鉄道が開通しました。当時の品川駅はこの橋のすぐ北側にあったそうです。
橋を渡ると京急線の踏切があります、ここは開かずの踏切だそうで無理に渡ろうとする輩もいるのか警察官が待機しております。
一本道を間違えたので国道15号線まで戻りました。
地下道の出入り口は江戸時代っぽい作り、花壇の石碑には品川宿から順に五十三次の宿場が書いてありました。ここから緩い下り坂になっておりこのあたりが浮世絵の場所と思われます。この右側にある丘は御殿山と呼ばれ一作目のゴジラが上陸した場所だそうです。日本橋をでて東海道1番目の宿場町品川宿に到着です。
”
東海道五十三次之内 品川 日之出 – 歌川広重 – 日本画 – 名画 – Canon Creative Parkより出典
下っていく様子が描かれています。海っぺりの街並みを見ると今はだいぶ埋め立てられたのだという事がわかります。
こちらが旧東海道踏切、右側に京急線北品川駅が見えます。品川駅より南にあるのに北品川なのは先ほど記述した通り品川駅が港区にあることに理由があります。京急線の方が地名に忠実ということですね。
品川宿は全長約4キロの長い宿場町です、京急線の新馬場駅、青物横丁駅、鮫洲駅、立会川駅に沿っているので、商店街も全盛期ほどではないようですが近くに住む人々の台所としてまだまだ活気がある場所もあります。当時の街道の幅そのままだそうです、現在の大型車サイズの乗り物なんかもないでしょうしこの広さで十分だったんでしょう。
さすが首都東京、電線もなく石畳にするなど旧東海道の当時の面影を残そうという努力が垣間見えます。
ペリー来航に備えた大砲を設置する台場につながる横丁の説明書きがあり。台場とは現在のお台場ではなく品川沖に来た黒船に対抗するために作ったもの、現在は台場小学校という学校になっており運河の向こう側には天王洲アイル等がある陸地があります。
江戸時代の品川宿は宿や茶屋だけでなく、宿場女郎や飯盛女と呼ばれる給仕兼売春婦のような人たちがおり一大歓楽街であったようです。
今のようにホストやアイドルの推し活の為にパパ活をして身体を売るわけではなく、農村から買われて来て男たちの相手をさせられていた人たちもたくさんいたんでしょうね。※現代にもやむを得ない理由の為に身体を売らなければいけない事情がある人もいるかもしれませんが…
武士の家、商人の家、農家の家に生まれても長男であれば跡継ぎ、それ以外なら養子や奉公人として出されたり売られたり、どの身分でも職業選択の自由や、やりがいの為に仕事をする事や、自分らしく生きるとか余計な事を考える暇も無かったはずです。
それを不幸と思っていたのかいなかったのかは当時に戻って本人達に聞いてみないとわからないかもしれませんが、皆懸命に生きていたんでしょうね。
創業が明治時代のお店や、見るからに古いお店も多いです。畳屋さんも何件かあり、お寺がたくさんあるから成り立っているのかなとも思いました。
本陣跡、現在は聖跡公園という公園になっており明治天皇も訪れたそうです。本陣は大名など身分が高い人しか泊まれない宿でした。お金持ちは食事がつく旅籠、庶民は素泊まりのみの木賃宿に宿泊したそうです。
その先には無料のお休み処がありました。中に入ると左側のカウンターに高齢の女性が座っておりました、周りには駄菓子が販売されておりました。こちらから挨拶をするも無言、おもむろにマスクをつけ始め歓迎されていない様子。日本人は他人が嫌がる事はしない事を美徳としている為、品川宿のパンフレットだけいただき即その場を離れました。たまたま機嫌が悪かったのか、声が小さすぎて私には聞こえなかったのかもしれません。
和風装飾の城南信用金庫と向かいにはまたもや観光案内所があります。
その先には和風モダン建築の城南小学校が…
品川区は財政が豊かな自治体であるとつくづく感じますね。
高級旅館のような佇まい、未来を担う子供たちにお金をかけるのは正しい選択ですね。
ここから青物横丁駅を過ぎ、城南地区の免許センターがある鮫洲駅を通過すると商店も少なくなります。
立会川にかかる浜川橋、別名涙橋と呼ばれます。なみだ橋というと漫画あしたのジョーの舞台となった南千住駅のそばにもありますね。そちらは泪橋と書きますが成りたちは似ているようです。
この先に鈴ヶ森の処刑場があり罪人は江戸から処刑場まで馬で運ばれる際に、密かに親族が見送りに来てこの橋のたもとで涙したそうです。
宿場の南側のはずれには鈴ヶ森の処刑場があります、明治4年に廃止されるまで稼働していたそうです。大経寺というお寺が併設しております。江戸の南の玄関口鈴ヶ森に処刑場を置くことで、江戸に入ってくる人々に生首を並べたり磔で殺された罪人達を並べる事により「江戸で悪さをするとこうなるぞ」と見せつけていたそうです。先ほどお伝えした泪橋がある日光街道奥州街道の江戸の北の玄関口千住宿にほど近い現在の南千住にも小塚原処刑場があり回向院というお寺がありますね。あちらも罪人だけではなく病気等で亡くなった吉原の遊女達など身寄りがない方々が葬られた投げ込み寺とも呼ばれていたそうですが、こちらも似たような機能を果たしていたと考えられます。つくばエクスプレスを建設していた時は南千住駅付近では掘ると骨がゴロゴロでてきたという話もあります。コツ通りと呼ばれる通りもありあの辺りは昼間にいってもうすら寒い感じがしますね。
写真にあるくぼみに柱を立て、そこに縛り付けられブスブス刺されて刺殺されたり火あぶりにされたそうです。
真ん中の写真は首洗いの井戸、処刑したあとの首を洗った井戸だそうです。井戸水は海水だそうです。
個人的には火あぶりはきつそうなので心臓や頭を一思いにやってもらいたいです。
もちろんどちらも嫌ですが。
こういう皆に見せしめて犯罪の抑止効果を図るというのは割と良い方法なのではないかと私は思っています。
現代の火あぶりは物理的に燃やされることではなく、悪さをするとX旧ツイッターなどインターネットで炎上し見せしめにされることではないでしょうか?違法な事や変な事はしないようにしようという気持ちが生まれこれも抑止力になっていると思います。もちろんフェイクニュース等もありますのでそれらには気を付けねばなりません、今も昔も冤罪を無くすことはなかなか難しいですが…
とんでもない罪人も多数処刑されたのでしょうが、中にはいわれのない罪に問われ殺されてしまった方も少なくなかったんでしょうね。どちらも死ねば仏という事で安らかにと50円支払いお線香をあげさせていただきました。※金額はうろ覚えです。
お線香の隣にこのような冊子があったので購入、確か200円か250円だったと思われます。
ここを訪れたのは15時15分、日本橋を出て3時間以上経過しました。左足のマメが大きくなり歩く度に痛みが走ります、足の指が使えていないんですね。ここから意識して指を使い横アーチを作りマメに当たらないように歩きます。
ここからは再び国道15号線と合流します。学校帰りの小中学生とすれ違います、皆元気です。
左手にしながわ水族館、右手に大森海岸駅それを過ぎると左手に平和島競艇場があります。
現在の娯楽施設は品川宿の南側に位置しているようです。
それをすぎると再び旧東海道、美原通りに入ります。大森は恐らく品川宿と川崎宿の間の宿であったのではないかと思います。
間の宿(あいのしゅく)とは旅人が休める茶屋等がある町で基本的に宿泊はできなかったそうです。
美原通りについての説明があります。
大正時代以降、国道整備の際は人家が密集していたのでそれを避けて作られたそうです。
旧道が現在も残るのはそういった理由なんですね。
かつて大森、羽田一帯は日本一の海苔の生産地だったので海苔問屋さんが多いです。関東大震災以降大型船を東京湾に入港させるために掘削、埋め立てが必要になり、東京オリンピック前の昭和37年にすべての漁業権を放棄し江戸中期から続いたこの近辺での海苔の養殖は翌38年の収穫を最後に幕を閉じたという歴史があります。
ですが海苔養殖や生産の技術はここから全国に広まったと言われており、今も技術の継承は続いているそうです。現在は海苔問屋だけが残され、お世話になっている人に愛知産、佐賀産の海苔を購入しました。しばらく歩くと大森警察署前で再び国道15号線と合流
この辺りでは右大腿四頭筋外側頭が痛くなってきます。
京急蒲田駅を通過この辺りは歩道がとても広いので歩きやすいのですが足に激痛が走るためとてもつらかった区間です。
雑色駅の手前にあったセブンイレブンでトイレ休憩かりんとう饅頭とお茶を購入。
品川駅以来久々に腰を掛けました。
糖質を入れると元気がでます、六郷の渡しまであと少し。時刻は16時30分
六郷神社を過ぎると六郷橋に向かう車道と、旧道の側道にわかれます。
その先の階段を上ると…
やっと多摩川に到着
かつては橋を架けても流されてしまうため、大正時代の六郷橋ができるまでは渡し舟による渡河が一般的だったそうです。
“出典 東海道五十三次之内 川崎 六郷渡舟 – 歌川広重 – 日本画 – 名画 – Canon Creative Park
神奈川県川崎市に到着
対岸には明治天皇が渡ったという記念碑と常夜灯のレプリカがありました。
階段を降り国道をくぐると旧東海道にでます。
川崎宿も電柱が無く石畳風の歩道になっております。
少し歩くと右側に本陣跡があり、現在はマンションになっておりました。現代の高級籠、欧州外車が二台停まっておりました。
町人風情が乗れる籠ではないですね。今も昔も本陣に滞在できる人間は身分が高い方のようです。
川崎宿にも品川宿と同じような施設がありましたが、この後の用事に間に合わない為スルー
17時30分川崎駅に到着、帰宅ラッシュの時間帯なのでグリーン券を購入、上野東京ライン高崎行だったため上野で常磐線に乗り換えて北千住まで快適に乗車できました。
当日の徒歩の移動距離25.08km 歩数35,838歩
電車賃1,990円 八潮-日本橋 川崎-亀有 グリーン券含む
深夜バス462円 亀有駅-八潮駅
飲み物軽食代 504円
かきあげそば 420円
お線香代、小冊子 250円
お土産(海苔)1,280円
合計4,906円
川崎駅から亀有駅までは1時間ほど、昔の人からは考えられないスピードです。
ちなみに江戸時代の人は初日に戸塚宿を目指したそうです、距離にして40km!私の倍歩く計算になります。
箱根駅伝の1区、川崎の先にある鶴見中継所までは1時間ほどで走ってしまうそうです。
まあ昔の人も、駅伝ランナーも私の体重の半分なんですけどね…と言い訳。
ちなみに、この後佐藤義人先生のセミナーがあり。右大腿外側が痛くなる原因はつま先が外を向いていることが原因と判明。
がに股気味に歩いているからなんですね。次回は修正して挑みたいと思います。
次は恐らく11月の最終週か12月になりそうです。
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