鍼灸整骨院あおてあ|八潮市大瀬

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テーマ: 東海道五十三次の旅

前の記事 東海道を歩く⑤ 2日目 程ヶ谷宿~戸塚宿

前回の記事からだいぶ時間が経ってしまいました。

年末年始で事務作業等も多く合間を見ながらの掲載となります、申し訳ございません。

戸塚宿~藤沢宿のルート※9キロあたりが藤沢宿となります。

地図

2023年令和5年12月12日火曜日 深夜から雨が降っておりましたが、スケジュール的に年内最後のウォーキングということでどうしても行きたかったので出発。予報では10時ごろには晴れるというのでそれを信じました。

朝のラッシュがすごい、北千住から乗った常磐線グリーン車もデッキまで人があふれて居ました。予想通り日暮里駅で乗り換えの人達が多数降りたので座ることができました。

10時少し前にJR戸塚駅に到着しました。

保土ヶ谷宿㉜

コーヒーが飲みたかったので駅のベックスコーヒーで休憩。

ベックスコーヒーはJR東日本系列のコーヒーショップですが…コンセントがないんですねここは是非設置してもらいたいところ。

最近はゴホゴホ咳をしている方が多いですが、コロナ5類相当に移行してから咳をしている人でもマスクをしていない人も増えました。

インフルエンザやアデノウィルス等の風邪も流行っているので症状がある人はマスクをしてもらいたいと思いますね。

外に出ると予報通り雨は止んでいました。

この日は水たまりなども予想されたのでビルケンのサンダルではなくアシックスのジョギングシューズのロングセラーGELカヤノで挑みました。

アシックスの開発担当社員、榧野俊一さんの名前が由来だそうで。マラソンの川内選手も愛用していたとか。

戸塚①

駅の西口のデパートの脇を抜け国道1号線を歩きます。

右側の消防署手前に戸邊本陣跡とありあます、明治天皇も訪れたそうです。

横に羽黒神社という神社があったのでお参り。

戸塚② 戸塚④

バイパスの国道1号線に合流するまでここから先は坂道になります。

戸塚⑤

大坂というそうです。

仇打ちがあったと書いてありますが、誰が誰を倒したのかまでは不明。

戸塚⑥戸塚⑦バイパスに合流

この辺りは大学時代に先輩の家に遊びに行くときに渋滞をしていたところなのでよく覚えています。

戸塚⑧

ここまで来ると景色がきれいです。

トイレに行きたかったのですがコンビニがなかなかありません。

戸塚⓽ 戸塚⑩

しばらく行くと道路の両側にセブンイレブンが!

温かいお茶と豆大福を購入。

外でいただいていると、飲み終えたチューハイの空き缶やコーヒーカップが置いてありました。

中に入ればゴミ箱があるのにそこに持っていくことすらできない程度が低い人間がいるのです。

私は一日一回は落ちているゴミを拾う事にしているのでこれらを店の中のゴミ箱に持っていきました。

戸塚⑪

大谷翔平選手がグラウンドのゴミを拾う事が有名です、彼は運を拾っていると言っています。

私もそれにならって真似をしていますが、それ以外にも目的があり。

ゴミを拾う事をブログに載せる事により、私がまともな人間だと知らしめられるとても良い方法なのです。※スーツさんの渋谷ハロウィンのゴミ拾い動画を見て真似をしました。

実際に以前、院の周りのゴミ拾いをしていたら建築業をしている先輩が通りかかって見ていたらしく「ゴミ拾い偉いね」とLINEをくれた事があります。

こういう事を書いているとゴミをその辺に捨てる人間に逆恨みされる危険はありますが、そういうタイプの人間はこんな長文読む能力がないので割と安心して生活しております。

なのでゴミ拾いは金もかからず自分をよく見せることができるので皆さまも是非、一日一拾をおすすめします。

ただし、ある政治家が多くの市民の前でお祭りなどのイベントでこれ見よがしにゴミ拾いをしていたとかなり反感を買っていた事がありますが…

マジでセンスがないと思いましたね。こういうのはさりげなくやるのがコツです、偽善をするのもセンスが要るのです。

そんなことを考えていると神奈川県のドライバーにはお馴染みの渋滞スポット、原宿の交差点があります。

戸塚⑫

ここのマクドナルドは昔からありますね。

大学時代にこの近くにグラウンドがある某大学と練習試合をしていたのですが。

大学4年時、左ひざの靭帯を痛めた事を思い出しました。

近くには横浜ドリームランドという遊園地があったのですが閉園になり今は公園や墓地になっているとのこと。

一号線からもエンパイヤホテル跡が見えますが今は薬科大学の図書館になっているそうです。

私が大学生だった20年以上前にはドリームランド線という大船駅とドリームランドを結んだ一年弱しか運航できなかった欠陥モノレールの高架橋跡がどこかにあったような気がしたのですがもう撤去されてしまっているのかもしれません。

今や世界に誇る日本の公共交通機関も昭和40年前後では技術力も安全に対する考え方もレベルが低かったようです。

鉄道好きとしては一度乗ってみたかった。

戸塚⑬

大磯宿まで五里というなかなか粋な看板。街道ウォークをしていると即座に約20kmということがわかります。

一里=3.93キロ、約4キロと覚えると良いと思います。※現代ではほとんど役にたちませんが。

井上かまぼこ店さんの看板なんですね。

戸塚⑭

立場跡、間の宿だったんですね。現在は何かの店舗があるのみで、江戸時代っぽいものはありません。

しかし車の往来がすごいです。

戸塚⑮

スーツさんが東海道自転車の旅で立ち寄った家系ラーメンのお店。

おなかがすいてなかったのでスルー、店構えからするとセントラルキッチン系ですかね?

お店で炊いていたら申し訳ございません。

戸塚⑯

国道1号線から分岐して藤沢駅方面へ行くと鉄砲宿という場所にでました。

鉄砲宿の由来は色々あるそうですが、この近くの影取池に人の影を食べてしまう大蛇がいたそうで影が食べられると数日のうちに死んでしまうので、その大蛇を倒すために鉄砲名人に頼み撃ち殺してもらった事が由来という創作っぽい説。鉄砲の練習場があったという説。あんまりはっきりしたことはわかっていないようです。

この辺りは歩道もしっかりしており、木もたくさん植えてあります。

戸塚⑰

昭和35年あたりに全国的に松くい虫が大量発生したことにより当時の松はあまり残っていないようです。

戸塚⑱ 戸塚⑲

この先の下り坂は遊行寺坂になります。

おそらく当時の街道はもっと高いところにあったのだと思われます。

今の道路はくり抜いてつくったのでしょう。

戸塚⑳

一里塚跡 遠くに藤沢駅周辺のマンション群が見えます。

右手には坂の名前にもなっている遊行寺清浄光寺があります。近世では遊行寺の呼び名が一般的になりましたが本当は清浄光寺というそうです。

藤沢① 藤沢②

江戸側の見附

東海道6番目の宿場町、藤沢宿に到着です。

藤沢橋の手前を右折すると、ふじさわ宿交流館という施設があり。

高札場がありますね。

トイレを拝借するついでに中を見学させてもらいました。

藤沢③文教大学のゼミが藤沢宿を3DCGで再現したものがPCで自由に操作できるようになっており少し遊ばせてもらいまいした。

プレイステーションのコントローラーのようなパッドがあるのでとても操作しやすかったです。

町人も歩いているし、プレイステーションのゲーム龍が如く見参を思い出しました。

文教大学は埼玉の北越谷にキャンパスがありますがそこの学生さん達なんでしょうか?学生がこんな素晴らしいソフトを作れるとはビックリです。

藤沢⑤ 藤沢④

藤沢市は人口約44万人を有する自治体でこんな施設を作れるという事は財政が豊かなんでしょうね。

現在12時、もっと色々見たかったですが時間がないので少し休憩して先を急ぎます。

藤沢⑥ 藤沢⑦

奥に見えるのが遊行寺。

藤沢⑧

左に行くと東海道に戻ります。遊行寺橋、浮世絵に描いてある橋ですね。遠くに見えるのが江の島だそうです、現在はビルに阻まれここからは見ることができません。

藤沢⓽藤沢⑩藤沢は都市化が進んでおりますが、宿場町の歴史を残そうとこのような施設を作ってくださっているので大変ありがたかったです。

ここから私的にはとても難所であった平塚宿までの道のりに続きます。

次の記事 東海道を歩く⑦ 3日目 藤沢宿~平塚宿~大磯宿

 


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前の記事 東海道を歩く④ 2日目 神奈川宿~程ヶ谷宿

 

保土ヶ谷宿~戸塚宿のルート

地図戸塚

天王町駅を南口に出ると駅前広場があります。

ここに旧帷子橋跡とあります、ちょうど浮世絵に描かれた辺りだそうですが、川もないし全然面影がありません。

一生懸命雰囲気は出そうとしてレプリカが置いてあります。

帷子川は流れが変わり現在はモスバーガーがあったそばの北口側に流れています。江戸方の見附かと思いきや、現在の帷子川の手前であったそうで全然気が付きませんでした。

既に程ヶ谷宿に入っていたそうです。程ヶ谷は現在、保土ヶ谷と書きますが明治時代は程ヶ谷と書いたそうです。ですがなんとそれ以前の江戸時代は保土ヶ谷と書いたとのこと。

ですのでここからは変換も面倒なので江戸時代に合わせて保土ヶ谷と書きます。知らなかった…

保土ヶ谷宿① 保土ヶ谷宿東海道五十三次之内 保土ヶ谷 新町橋 – 歌川広重 – 日本画 – 名画 – Canon Creative Park

東海道とは全然関係ない話なのですが、神奈川県に入ってずっと公園等に公衆トイレが全くないのに気がつきました。

都内は本陣跡の公園などに公衆トイレが設置されていたのですが…神奈川はありません、あるのかもしれませんが私が歩いた道のりではこの先もありませんでした。

横浜出身八潮在住の方にそれを聞くと「あーそういえばないですね、恐らく神奈川って中高生が公園にたまるという文化が埼玉より強い気がします」とおっしゃっていました。

他の地域でも子供たちが商業施設や公園でたむろするのはごくごく一般的な光景だと思うのですが…

確かにヤンキー漫画の舞台になることも多い神奈川県、人口日本一の自治体横浜市なので財政的に厳しいというのは考えられないので、公衆トイレがあると中でいらんことをする輩がいるのかもしれません。なので神奈川県内では※これを書いている段階では大磯までしか行ってませんが…

この先もトイレには悩まされることになります、旧街道沿いは意外にもコンビニもあまりないので辛い時もありました。

日本では市街地や公共の場所での立小便は軽犯罪法違反になる恐れもありますし、昭和の時代のおじさんのようにところかまわず立小便をしてそれを目撃してしまった方を不快にさせたくないのでそれはやめようと思います。

ここからJR保土ヶ谷駅までは都市化されておりほとんど痕跡はありません保土ヶ谷駅前ロータリーに行く道路と商店街の旧道に分かれる道を行くと問屋場跡や高札場跡の碑があります。

保土ヶ谷宿② 保土ヶ谷宿③

それより先に行くと、東海道本線の踏切があります。

保土ヶ谷宿④

 

それを渡ると国道1号線とぶつかります。

道路の向こうには偉い人たちが宿泊する本陣跡がありました、ずいぶん古い建物です使用しているのかわかりませんが保全はされているようです。宿場町というのは入り口と出口が鍵状に曲がり角になっている事が多いです。これは敵が攻めてきた時に宿場の中が簡単に見渡せないようにしているのでこうなっているみたいですね。ここも右側に曲がっております。

保土ヶ谷宿⑤

 

歩いていくと右側の線路の向こうに素敵なお寺があります。大仙寺というそうです、寄り道したかったですが足も痛いし時間もないのでスルー

保土ヶ谷宿⑥そしてトボトボ歩いていると道路に停まっていたトラックの後ろにいた某大手宅配会社の中年女性ドライバーに声をかけられました。

「すみません、この台車の荷物重いので車に載せるのを手伝ってもらえませんか」と言われ…

いやいや仕事なんだからどこの誰かもわからない人間にお客さんの大事な配送品を持たせちゃダメだろ、もし俺が落としたら補償の問題とかどうすんだよという思いがよぎり無視していこうとしましたが…

まてよ、江戸時代の人は今の時代より不便だったけどそんなの関係なく助け合って生きていたんだよなと思い直し、巨大な荷物をトラックの荷台に載せるのを手伝いました。

もちろん女性ドライバーには大変感謝してもらいましたが、「いえいえとんでもございません、これから京都まで歩いていくんです」と言ったらせっかく良い事をしたのにこいつ頭がおかしいんじゃないかと台無しになりそうなので、「頑張ってくださいね」とだけ言っておきました。

歩きながら私は現代の決まりとか価値観にとらわれすぎて、損得抜きにした助け合いの精神が無くなっていたのだと自覚しました。賽銭箱に小銭入れたら良い事があるみたいな見返りを求めたセコイ考えはあまり持たないようにしようと思いました。今朝、鶴見の神社で旅の安全を祈願してしまいましたが…旅をさせていただきありがとうございますという気持ちのが良いのかと禅問答のように考えていると、茶屋本陣跡の表記がありました。今は一般の住宅になっているので写真は撮らず。大きな宿場には2~3個本陣があることがありますね。

保土ヶ谷宿⑦

先に行くと左手に一里塚が…

この辺りが京側の見附なのかもしれません。裏側には崖にへばりつくようにマンションや住宅が建っています。個人的にはこの光景が横浜らしい光景だなあと思います。

保土ヶ谷宿⑧

いちょうがきれいです、落ち葉の処理が大変なんですけどね… 養護学校の先生らしき人が子供を連れて歩いていました、大変な仕事ですよね。

この先は二股に分かれ歩道がない旧道に入ります、道も狭いし車も通るし歩くには嫌な区間です。

東海道線によって分断されたお寺があり、歩道橋の工事をしていました。これまではお寺内の踏切で行き来していたようです。往来が激しく工事中でもあったので写真は撮れず。

東海道線にはこのように分断してしまったお寺などが他にもあり静岡にも有名な寺院があるのでそこに行くのが楽しみです。

保土ヶ谷宿⓽

やっと権太坂の入り口に到着、セブンイレブンがあったのでトイレを借りてお茶を購入。天王町駅のモスバーガーはトイレが故障中だったので神奈川宿の入り口の公共施設からここまでやっとトイレを使うことができました。この時点で13:30過ぎ

保土ヶ谷宿⑩

東海道の見どころの一つ権太坂です。急な坂道沿いにはマンションや住宅が並びます。

保土ヶ谷宿⑪

なかなか急な坂ですが、ここまで16kmほど歩いてきてあることに気がつきました。

上っていてもそんなに辛くないのです、もちろん楽ということはないんですが平地を歩いている時と使う筋肉が違うので平地を歩いていた時に痛んだ部位が痛まなくなったりするわけです。

当たり前のことなのかもしれませんがこれは発見でした。

保土ヶ谷⑫

 

保土ヶ谷バイパス?だと思いますがその道路を超えます。

おそらく山を削って道路にしたのだと思います、橋自体も傾斜があります。

保土ヶ谷⑬

 

橋の下に車がビュンビュン飛ばしています。

遠くにランドマークタワーが見えます、昔は海が見えて綺麗だったんでしょうね。京都からここに来るともうすぐ江戸だという気持ちになったのだそうです。

保土ヶ谷⑮

 

橋を渡ると工事現場の脇に石碑がありました。

江戸から西へ向かう人がはじめて経験するキツイ登り坂でしたと記載してあります。

ちなみに権太坂は律令国制において武蔵の国と相模の国の境界であったとのこと。

ついに相模の国に入ることができたわけです。

保土ヶ谷⑯

 

坂道の上には高校や小学校、支援学校などがあります。

学校は土地がないとできないので、割と遅くに開発された地域なのだと思います。高校の創立が1968年末期という事なので高度経済成長期で人口が増加していたのだと思われます。

一般的に山の手というとお金持ちが住む地域という印象ですが、横浜周辺に関していうと港の近くの高台を除いては土地が少なくて仕方ないから丘の上に建てたという感じがしますね。先ほどの山にへばりついたマンションや住宅もそうですね。

実際この辺の住宅は庶民的な作りのものが多かったです。

昭和初期はこの辺りで林間学校をやっていたと写真付きで紹介されています。

保土ヶ谷⑰

 

権太坂の由来には二つあって

通りかかった旅人が歩いていた地元の老人に向かって「この坂は何という名前だい?」と聞いたところ耳が悪い老人は自分の名前を聞かれたと思い「へぇ権太でございますよ」と答えたのがきっかけという説と、権左衛門という人が代官の指図でこの坂を作ったので「権左坂」と名付けたがいつのまにか「権太坂」に代わっていたという説があります。

私は漫画藤枝梅安で紹介されていた老人の勘違い説が好きです(笑)

保土ヶ谷⑱

住宅街を歩いていくと境木小学校前という小さいバスロータリーがあり、そこの消防団の詰め所に浮世絵が書いてありました。

女子高生がそばにいたので盗撮と思われないか心配でしたが杞憂に終わりました。写真を撮る時には人が写りこまないように配慮しなければなりません。

これは鎌倉山方面の絵だそうです。

保土ヶ谷⑲

 

ここからはバス通りで往来があるので歩道があります。

歩道が広くなっているところがありここが境木立場跡、間の宿であったんですね。この先は下りで焼餅坂、少し上って品濃坂と続きます。

江戸から来ても京から来てもこの辺りが頂上なので一息いれる場所が必要だったのでしょう。

目の前には境木地蔵尊があります。

保土ヶ谷宿⑳

焼餅坂、昔はここで旅人に焼き餅を売っていたそうです。

保土ヶ谷宿㉑

 

保土ヶ谷宿㉒

 

住宅街を上って下ると品濃坂一里塚がありました。神奈川県内に両側に一里塚が残る場所はここのみらしいです。

確かにこんもりとした山が残っています。

保土ヶ谷宿㉓保土ヶ谷宿㉔

一里塚を過ぎたところに30代か40代くらいの男性がケアセンターの目の前の道の真ん中に痰を吐いていました。

見ていて気持ちが良いものではないです、人に見えないところで側溝などに吐くなりすればよいのに。

客観的に自分を見れない人間にはならないようにしようと思いました。

右側にはJR東戸塚周辺の壮大なマンション群が見えます。

川崎からここまでちょうど20キロほど、時間は14時19分。前回あるいた日本橋ー川崎間と同じ距離ですが疲労や痛みが前回に比べて楽です。

ここから帰るパターンも考えていましたが、夜の会合にもまだ間に合いそうなのでウォーキングを続行しました。

人間の順応する力はすごい!

保土ヶ谷宿㉕

 

先に行くと果樹園があったり、のどかな風景です。

品濃坂にぶつかります。ここは歩道の階段だけです。旧東海道の看板がありがたい。

それにしても落ち葉がすごいです。

保土ヶ谷宿㉖

ここも先ほどの保土ヶ谷バイパスと同じように山を削って作られたと思われる環状2号線があります。

ここからほど近い丸山台というところにある高校ラグビー部の先輩が営む家系ラーメン店はま家に行く際に通ったことがあります。

立ち寄りたいところですが、徒歩で寄り道はかなりきついので断念。店舗案内|横浜市港南区丸山台 横浜ラーメン はま家 (ramen-hamaya.jp)

保土ヶ谷宿㉗

ここからの道は過酷でした、風が強く砂煙が舞う住宅街を抜けるとバス通りにでます。

なんとも退屈だし疲労もでてきました。

足全体に痛みが出だしました、ただ部分的に痛いのではなく足裏、ふともも全体に痛かったのでバランスよく使えるようになってきているのだと実感できました。

夕方の渋滞が始まってきておりトラックなども通ります。一号線に合流し歩道をひたすら歩きます、特に史跡などはなく退屈な道のりです。

巨大なヤマザキパンの工場があったり、名だたる日本のものつくりの企業の工場が並びます。

港に近く、かつては広大な土地があったからかと想像しながら歩いているとやっと一号線と戸塚駅に向かう旧東海道の分岐に差し掛かりました。

旧道は住宅街を抜けてきます。そうするとレンガ作りの立派な建物が…

特に看板等はありませんでしたが、後から調べてみるとここは明治時代からある有名な鎌倉ハムの最初の貯蔵庫だったそうです。斎藤家という家が営んでいるんですね、かつては隣に広大な屋敷があったそうです。

なんでもホテルとハムの為の牧場経営を行っていたイギリス人と恋仲になったかねさんという方の奉公先が斎藤家だったと。そういうつながりから鎌倉ハムが誕生したそうです。

何故戸塚なのに鎌倉かというとかつてはこの辺りは鎌倉郡という地名だったためだそうです現在は横浜市でありますが。

この時代に異国の方と恋愛して結婚するってすごいですよね、港町に近い戸塚ならではのお話です。

しかもその方のおかげで紆余曲折を経て今も鎌倉ハムとして会社があるのだから、なんともロマンを感じます。

創業130年超の老舗の味、今度食べてみようと思いました。

保土ヶ谷宿㉘

 

川にぶつかり再度国道1号線と合流、五太夫橋を渡ります。

この辺りでは足をつくと痛いので歩き方がジョギングのようになってます。立脚相の時間をなるべく減らしたいという感じでしょうか。

保土ヶ谷宿㉙

その先にやっと戸塚宿江戸側の見附に到着、東海道5番目の宿場町になります。

現在は大きいイオンのショッピングセンターがあります、ここも工場跡だったのでしょうかね。

工場跡地は大抵ショッピングモールかマンションになることが多い気がします。※ストリートビューで確認するとかつてここはダイエーやファミリーレストランフォルクスであったようです(笑)それ以前はわかりませんが…

保土ヶ谷宿㉚

柏尾川に架かる吉田大橋を渡ります、浮世絵はこの辺りでしょうか。

ちなみに浮世絵の写真はJR戸塚駅に展示されていたもの。

保土ヶ谷宿㉛ 保土ヶ谷宿㉜

 

ここからしばらく歩くと15時26分JR戸塚駅に到着

この場所はかつて踏切があった場所でなんと2015年まで存在したそうです、割と最近ですね。

箱根駅伝第30回大会まではここがルートだったので昭和24年くらいまでは電車に待たされることになってしまったランナーがいたとか…

この日はここで終了、東海道線湘南新宿ラインに乗ってしまいグリーンアテンダントさんに武蔵小杉で横須賀線に乗り換えれば品川に行けますよ~と教えていただいたので無事リカバリーして17時には八潮に帰ってくることができました。

保土ヶ谷宿㉝

 

2023年11月28日 川崎宿~神奈川宿~保土ヶ谷宿~戸塚宿

川崎駅~戸塚駅までの移動距離27.82km 7時間57分

当日の総距離28.23km歩数41,824歩

 

電車賃 4,014円 グリーン券含む

コーヒー代 280円

お土産海苔 605円

今川焼 120円

昼食代モスバーガー 1,290円

お茶代 138円

合計 6,447円 (総計11,353円)

 

備忘録としてどれくらいお金がかかるのか載せています(笑)

これから電車賃もかさむと思うので時間と費用のバランスを考えなるべく節約しつつ楽しみたいと思います。

次回は年内最後の行程となります。

 

次の記事 東海道を歩く⑥ 3日目 戸塚宿~藤沢宿

 

 

 

 

 

 

 

 


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東神奈川駅を左手に先に進むと、松並木があります。旧東海道にはかつて松並木が植えられているところが多かったらしくそれを再現しているようです。

とても美しいですね。

神奈川宿②左手には神奈川地区センターという図書室、会議室、体育館がある公共施設がありその一角に高札場※おそらくレプリカがあります。

高札場は幕府が掟や法度、現在でいう法律などを示していたそうです。「徒党禁止」農民一揆や武士の徒党いわゆるクーデターのようなものでしょうか?それらも禁止され治安維持に努めていたんですね。川崎宿や品川宿の公定運賃が書かれていたりもしたそうです、何の運賃かはよくわかりませんが恐らく飛脚に託す手紙や籠代でしょうかね。外国人が入ってきていたので切支丹禁制(キリスト教)もあったそうです。日本の現代の価値観で見ると、信仰の自由だろ!と思いそうですが、キリスト教やイスラム教は他の神を認めない一神教なので戦いが起こりやすいんですよね。現在も宗教戦争が発端になった争いが絶えません。日本人は神道がベースにあるのでいたる所に神様がいるというのが根底にあるため、様々な宗教を受け入れる土壌があるのですが一神教の神と神道の神を同列に扱ってしまうと危険だと常々思っております。それを江戸時代の人が恐れて禁制にしてたと考えるとかなり頭が良い見識がある人が幕府にいたのだと感心させられます。ただよくわかんないから禁止にしてた可能性もありますが。なんにせよ日本の神様をgodと訳してしまうのは誤りなのだと小林よしのり先生の本に書いてあったことを思い出しました。

神奈川宿③ 神奈川宿④先に進むと外国人宣教者宿舎跡の碑があったり、左側には石井本陣があった滝の川公園がありそこに明治天皇行在所の積というのがあります。川崎の六郷の渡しのところにもありましたが明治天皇が京都から東京に向かう際にこの石井本陣に宿泊したそうです。明治天皇が訪れた場所を聖蹟として残す動きは昭和に入って各地で起こったそうです。聖蹟とはそういう意味だったんですね。京王線にも聖蹟桜ヶ丘駅という名前の駅もあります。土橋を渡る際に強風が吹き始め落ち葉が舞っておりました、それをみた高齢の男性が私に声をかけてきましたが何を言ってるのかわからなかったのでとりあえず「すごい風ですね」と笑顔で答えておきました。

神奈川宿⑤土橋を渡ると左手にもう一つの本陣跡、右手にはイギリス領事館が置かれた浄瀧寺があります。開港すると外国人が多数訪れるようになったのでとりあえずお寺を領事館として使ってもらうことが多かったそうです。生麦事件の時は生き残ったイギリス人3人はこのイギリス領事館ではなくこの先にあるアメリカ領事館に逃げ込んだそうですが何故手前の自国の領事館に行かなかったのか謎です。

この辺りは住宅街ですが坂道が増えてきます。旧街道を須崎大神前を抜けます。

神奈川宿⑥時間は11時半、おいしそうな洋食屋さんがランチを始めておりましたが今川焼を食べたのであまりおなかが空いてなかったので先を急ぎます。

旧街道を右に曲がり坂道を上ると京急線神奈川駅に到着しました。

神奈川駅から線路を挟んで向こう側に見えるのが本覚寺かつてアメリカ領事館があったお寺です。

下の話で申し訳ないですがかつて外国人はどうやって用を足してたんですかね、日本式の汲み取り式の厠(トイレ)にしゃがんで行っていたのでしょうか?

神奈川宿⑦橋の反対側から見た神奈川駅、ちょっと和風で江戸時代っぽくしてくれているのだと思います。

鉄道は坂道に弱いので丘を切り開いて鉄道を通したのだという事がわかります、かつての神奈川駅は現在の場所ではなく今の横浜駅よりのところにあったそうです。

神奈川宿⑧

ここから少し横浜駅の方に下り駅のかなり手前を右に曲がると旧東海道にでます。

神奈川宿⓽神奈川宿⑩.東海道五十三次之内 神奈川 台之景 – 歌川広重 – 日本画 – 名画 – Canon Creative Parkより出典

浮世絵はこの辺りだと思われます、現代では写真左側の奥は横浜駅があります。

海を埋め立てて線路を通したんですね、ちなみに外国人居留地は現在横浜スタジアムの近くの関内にあったそうです。

この手前にはかつて東急東横線が通っていた線路跡が遊歩道として整備されておりました。

神奈川宿⑪

金刀比羅神社と一里塚の跡があったり

神奈川宿⑫

看板の写真ばかりで申し訳ありません、もっと神社など写真を撮ればよかった。

こちらが横浜駅方面の写真

神奈川宿⑬

こちらは料亭滝川さん、昭和22年開業なので割と新しめ。まあ普通に考えたら老舗なんですが…街道ウォークをしているとか感覚がおかしくなります。

神奈川宿⑭

そしてこちらが神奈川宿当時から続く料亭田中家さん、なんと創業文久三年1863年高杉晋作やタウンゼントハリスも訪れたとか…

ハリスって名前は聞いたことがありますが私は良く知りませんでした、なんでも初代の駐日アメリカ領事だったそうな。

神奈川宿⑮

そしてこちらはには竜馬の妻であったおりょうが働いていたこともあったとか。

勝海舟の紹介で働き始めたそうです。

神奈川宿⑯

月琴がひけて英語が話せたので外国人の接待に重宝されていたと書いてあります。

このおりょう竜馬の死後、竜馬の土佐の実家に身を寄せるも折り合いが悪く一年ほどで京に戻りそのあと関東に来て酒に溺れて妾になったりしながら横須賀で寂しい生涯を終えたそうです。

京都の医師の家に生まれたので育ちは良かったようで楽器を弾いたり、茶道、生け花などに親しんだそうですが家事等が全然できなかったと…父が安政の大獄で捉えられてしまいそれから旅館で働きだしたとのことなので、まあ田舎の家に入っても邪魔者扱いされるでしょうし、京の都会に生まれた本人も田舎の生活なんて嫌だったでしょうね。

なのでこちらには横須賀に移る前に働いてたと思われます。

神奈川宿⑰竜馬については司馬遼太郎の小説「竜馬がいく」のイメージが一般的になっております。私は武田鉄矢さん原作の漫画「おーい竜馬」を読んだのですごい人だなあと思っていたのですが、実際は剣術も微妙だし日本史にも大した影響は与えていない言う人もいたりネットでは様々な議論がなされております。

大河ドラマや小説等、創作の部分はあるのかもしれません。でも高知県では空港の名前になったり駅前には巨大な銅像があったり地元でも愛されている感じはしますね。

私は幕末では仲間に嫌われながらも汚れ役を買って未来の日本の為に働いた長州の桂小五郎や薩摩の大久保利通のが好きです。

歴史は勝者が作るので彼らも実際どういう人間だったかは厳密にはその当時に戻ってみないとわかりませんね(笑)立場によっても見方も変わりますし。

本当に詳しい方から見たら「それは違う!」と怒られてしまうかもしれませんので、あくまでも個人の戯言だと思ってください。

神奈川宿⑱

その先には神奈川台関門跡を通過するとここから下り坂になります。

山側には素敵な住宅街と高そうなマンションが並びます。豪邸もありましたね~

神奈川宿⑲

歩いていくと旧街道から環状一号線に合流、この辺りは軽井沢という地名なんですね。軽井沢というと長野県の避暑地を思い浮かべますが横浜にも軽井沢があったとは。

調べてみると長野の軽井沢とは関係がないが、目の前の埋め立て地に水が流れてしまうので沢が枯れてしまうので枯れ沢と呼ばれそれをもじって軽井沢と名付けた説が濃厚みたいです。※諸説あるそうです。

環状一号線の歩道橋からランドマークタワーが見えます、歩道橋を渡ると旧東海道が復活。右側の崖上に浅間神社があるそうです。

神奈川宿⑳

しばらくなんの面白みもない住宅街を歩きます。※地元の方すみません

神奈川宿㉑

しばらく行くと追分があります。分かれ道ですね、右側に行くと八王子街道です。神奈川往還ともいわれるそうです。

現在の大和市、相模原市を経て八王子市までの道です。

八王子は養蚕業が盛んだったので絹が港まで運ばれていたんでしょうねぇ

神奈川宿㉒

その先には松原商店街があります、ちょうどお昼時結構にぎわっています。こんなに賑わっている商店街令和の時代にそんなにないと思います。

商店街ソングがゆる~く流れていて良い感じです。

神奈川宿㉓

 

買い物客の間を縫って歩いていくと相鉄線天王町駅に到着。

スマホの充電もしたかったのでモスバーガーでランチ、堀江貴文さんが「和牛の安売りやめてほしい」と訴えている和牛バーガーセットを注文。

堀江さんのおかげで良い宣伝になっていると思います(笑)堀江さんは和牛のブランドを世界に売り出すために真剣に頑張っている方なので笑ってはいけませんが。

神奈川宿㉔ハンバーガーはおいしかったです。充電もあったので30分ほどかけてゆっくり食べました、令和の旅は充電が大切です。

念のため、アンカーのモバイルバッテリーは携帯しています。

YouTubeやってよと言ってくださる方もいるのですが、カメラのバッテリー等持ちながら歩くのは結構大変なんですよね。

編集も大変なのでブログでご容赦ください。

食べ終わり駅の高架を抜けると東海道第4番目の宿場町程ヶ谷宿に到着です。

 

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ほぼ一か月ぶりに東海道の旅を再開。

実は先月11月は勉強会の為、上方(京都)に2度赴きました(笑)

飛行機と新幹線で行きましたが、3時間もかからず到着してしまうという現代の交通技術の素晴らしさを以前よりも実感する事ができました。

京都駅は大きいスーツケースを持った外国人やキャリーケースを無造作に転がす日本人観光客で溢れていました、観光で潤うのは結構ですが住民の方々の暮らしが脅かされているそうでオーバーツーリズム対策も本腰を入れないと住民にとっても観光客にとっても良くない結果になってしまうのではと思いました。

kawasaki地図

さて、今回の旅は川崎宿~相模の国戸塚宿を目指します。地図は川崎駅から横浜市生麦付近までのもの

朝、電車を乗り継ぎ8時30分過ぎにJR川崎駅に到着、もうすでに通勤客で溢れており普段満員電車とは無縁の生活を送っている私としてはなかなか新鮮でした。

一応サラリーマンをしていた頃もあるのでその頃は毎日乗っていたんですけどね。

川崎駅に着くと、通勤のサラリーマンに紛れて私立小学校と思われる制服を着た子供たちがチラホラ、中には活字の本を読んでいる子供もいて驚きました。

将来の日本を担う優秀な頭脳達です。

kawasakieki2 川崎駅

ここから旧東海道を鶴見方面に歩きます。

居酒屋さん等飲食店が多いですね。

川崎①

 

しばらく歩くと飲食店も少なくなり。

京急線の線路の脇に松尾芭蕉の石碑がありました。

松尾芭蕉が伊賀へ旅発つ時に、弟子との別れを惜しんで川崎宿で『麦の穂をたよりにつかむ別れかな』(風にも揺れる頼りない麦の穂を頼って歩く旅立ちの別れであるよ)と詠んだそうです。

この年に大阪で辞世の句を残してこの世を去ったことから芭蕉に関東で最後に詠まれた句となったとのこと。

松尾芭蕉っていつもお金が無く、方々の金持ちに今でいうスポンサーについてもらって生活し旅をしていたそうですね。

私には俳句等の素養がないので何が楽しいのか良くわかりませんが、娯楽が少なかった昔はお金を払ってでもそういう才能に援助するのはある種のステイタスであったのかもしれません。

亡くなった後、芭蕉が神格化された事を考えるとうちの敷地の草庵で暮らしていたと自慢したり、価値がある書を保有できたことを考えるとそのスポンサー達も元をとったのだと仕掛け人藤枝梅安で梅安先生も言っておりました。

川崎②

都内ではあまり見なくなった踏切

八丁畷はっちょうなわて駅に到着、ここは京急線とJR南武線の支線の乗換駅だそうで珍しく乗り換えの際は他社線にも関わらず改札がないのだそうです。

京浜工業地帯に乗り入れる南武線の支線や後で出てくる鶴見線は一度乗ってみたい路線ではあります。

東芝の敷地内の為、一般人は降りられない海芝浦駅なんかもいずれ行ってみたいと思います。

八丁畷①

旧東海道はこの踏切を渡っていきます。

駅の傍らには無縁塚がありました。川崎宿は多摩川の洪水をはじめ大火や飢饉、疫病などたくさんの死者が出たこともあり、身元がわからない遺体は宿場の京側のはずれであるこの辺りに埋められたそうです。昔は人家などもそんなになかったエリアなんでしょうね。今は立派なマンション等も建ち品川、横浜と都心へのアクセスも良い事から人がたくさん住んでいます。

ただ、戦後になっても道路工事などをやると人骨が出てくることもあったそうです…

八丁畷② 八丁畷③

 

しばらく歩くと右側に熊野神社があります、旅の安全を祈願しお参りしてきました。

市場銀座商店街がありますが昔ほどの賑わいはないそうです。鶴見川を渡るまでは川崎市と思い込んでいましたが、もうすでに横浜市鶴見区に入っていたようです。

鶴見市場とは言いますが調べても市場に関する情報はなく、今は現存していないのかと思いました。

駅の反対側の国道沿いには箱根駅伝で有名な鶴見中継所があります。第一走者は日本橋からここまで1時間で来てしまうそうです。

鶴見市場①

その先の左側に一里塚がありました。

一里塚とは街道沿いにある目印、一里約3.927kmごとに土盛りした塚を設けて旅人に目印にしたり運賃や送料の基準としたそうです。

昔はこの辺りは市場村と呼んだんですね。

それにしても旧街道あるあるなのですが、道幅が狭いのは良いのですが歩道も無い道路に車の往来がありそこに自転車も来るなど現代の東海道の旅人を苦しめます。

品川宿のようにほぼ歩行者天国のようになっていると楽なのですが…

鶴見市場② 鶴見市場③

そこからようやく鶴見川橋に到着。

橋から見える鶴達を見て徳川家康が鶴見橋と名付けたんだとか…

鶴見という地名もこの橋の名前が由来のようです。

鶴見川は地図で見てもわかるようにかなり湾曲しており、度々洪水を起こす暴れ川として昔から有名でした。

この上流には横浜国際競技場(日産スタジアム)があり、2019年10月ラグビーワールドカップが開催されていた際に台風が直撃。

このスタジアムを含めた周辺は洪水を防ぐための貯水池としての設備でもあったため、グループリーグのフランス対イングランド戦は中止。

翌日の日本対スコットランド戦も開催が危ぶまれた話もありました。

中止引き分け扱いでは決勝トーナメント進出が出来なかったスコットランドのヘッドコーチは「日本が逃げた」等暴言を連発。

関係者たちの努力でスタジアムを復旧させ開催をこぎつけ、見事日本が勝利した事を思い出しました。

あれから4年今年はフランスでワールドカップが開催され、月日の流れる事がなんと早い事かと思いますね。

鶴見①

 

ここに鶴達がいたんですね~

今は東京湾の京浜工業地帯に遮られ海は見えません。

鶴見

鶴見③

橋を渡りしばらく進むと京急線の鶴見駅が正面に見えます。※写真はJR鶴見駅

旧東海道は鉄道や国道に分断されているところが多く高架をくぐって線路の反対側にでます。

鶴見は川崎宿と神奈川宿の間の宿だったそうで、当時からそこそこ賑わっていたみたいです。

私事ですが、私の祖父は山形から上京し現在も京浜工業地帯にある日本鋼管(現JFEスチール)の社員であったため、父は日本鋼管の社宅があるこの鶴見で育ちました。

私が生まれた頃は祖父も退職し瀬谷区の方に戸建てを購入し引っ越していたので、私が幼い頃に鶴見を訪れた事はありませんが…

亡き父がここで育ったのだと色々思いを馳せながら歩くことができました。

鶴見④

鶴見⑤

 

鶴見⑥

 

京急鶴見駅の反対にでると

あなたのお店銀次郎というお店が…サラリーマン金太郎で有名な漫画家本宮ひろ志さんの絵でしょうか?

調べてみると江戸川区の小岩や世田谷の池ノ上駅のそばにも同名のお店があるようでチェーン店かフランチャイズなのかもしれません。

実は本宮ひろ志さんの甥っ子は私の高校の同級生、確か新小岩出身だったのでもしかしたら縁があってイラストを提供したのかなと思いました。

その窓ガラスに田庄の焼きのり取り扱い店の文字が!

この田庄さんは大田区にある海苔問屋さんで、叔母の知り合いだった縁から我が家では年末になると毎年箱で注文しておりました。

子供の頃から食べているので何とも思っていませんでしたが…大人になってスーパーのプライベートブランドの海苔を食べてそのまずさに驚いたのと同時にこの海苔のありがたみを知ることができました。

子供のころから贅沢が当たり前になると不幸になるという戒めとなりました。

ということで思わず入店、お正月のお餅用に海苔を購入しました。

今はアマゾン等ECサイトでも購入できますので是非

寿司海苔問屋 株式会社 田庄 (tasho.co.jp)

鶴見⑦

ここから道なりに行くと国道15号線にぶつかります、旧道は国道の反対側となります。

少し行くと、鉄オタには有名な鶴見線、国道駅があります。

この国道駅北口は旧東海道に接しており、南口は国道15号線に接しています。1930年昭和5年に開業そこから大規模な改修工事等は行われていないため90年以上前の雰囲気が今も残されます。

こちらは旧東海道側、ならず者が落書きをしています。このような歴史的文化遺産とも言える建物に下手くそな落書きをする知能が低い輩がいるんですね。

鶴見⑧

港湾地域に行く支線のような役割の為、ここでの乗降は付近にお住いの方位のようで一日1000人ちょっとで横浜市にありながら無人駅だそうです。

suica等ICカードの読み取り機は設置してありました。

改札外にトイレがあったので拝借しましたがアンモニア臭がすごいです、恐らく掃除等は行っているのだと思いますが排水設備が古いのだと予想されます。

男性用の便器と和式便器がありました。無料で使っているので文句は言えません。

鶴見⑫

 

こちらが国道側

こちらもならず者の落書きを消した跡があります。

そこに怒りを覚え、上に目をやると網の奥にボコボコ穴が開いております。

鶴見⓽

これは太平洋戦争末期のアメリカ軍機P51マスタングによる機銃掃射の跡だそうです。

鶴見⑩

川崎から横浜一帯は軍需工場があったのでそこをつなぐ鉄道を狙ったのだと思いますが、川崎や横浜の大空襲では沢山の人々が犠牲になりました。

今は同盟国ですが住宅もある旧街道沿いに機銃掃射をするとは…

大戦初期には無敵を誇ったゼロ戦もこのころにはP51に相当苦戦したようです、それでもエースパイロットが乗るゼロ戦がP51を撃墜することもあったとか。

そんな優秀な若者達が最前線に送られ空に散っていったと思うと無念でなりません。

鶴見⑪

本当に昭和の時代にタイムスリップしたと見まごうばかりの光景です。

ここから旧東海道に戻り歩いていると、魚屋さんがチラホラあります。

生麦魚河岸通りと言うそうです、以前テレビで見たことがありましたがここだったとは。

ちゃんとした営業時間はないそうですが。8時半から10時くらいに行くと開いているそうです。

私が訪れたのは9時過ぎだったので営業しておりました。

今度車で訪れたいと思います。

家々間から先ほど渡った鶴見川が見えたので住居の間の細い通路を通って川沿いに出ると、先ほど行った国道駅を通る鶴見線の橋梁が見えました。

鶴見⑬

11月末の割に暖かく散歩している方もチラホラ。

川の向こう側に物凄く新しく大きな学校が、これは横浜市立横浜サイエンスフロンティア高校という高校だそうです。

少子化の中、新設校を作れるとはさすが日本一人口が多い自治体ですね。

今後AIやインターネット技術により今後文系学生の就職先は激減するでしょうし、これからの日本を担う理系の若者を育てるのは正しい選択と言えます。

税金の正しい使い方を見ることができました。

鶴見⑮

この辺りになると海も近いので川幅も広くなります。

鶴見⑭

道なりに歩き、旧東海道に戻ります。

そこには有名な生麦事件の発生現場があります。

現在は一般の住宅が建っているので、住民の方に悪いので看板だけ写真を撮りました。

本当に普通の住宅街です。

 

生麦①

その先の国道15号線との合流部にはキリンビールの工場があります。

その一角に生麦事件の碑が設置されております。

私が今まで聞いていた生麦事件は、大名行列の前を横切って無礼者!とぶった切られてしまった気の毒なイギリス人というイメージだったのですが…

よくよく調べてみるとそうではなかったようです。

1862年文久2年、江戸から京都へ向かう薩摩藩の大名行列が生麦村に差し掛かった頃、横浜の居留地から「日曜日だから川崎大師でも見に行くか~」と乗馬をしていた亡くなったリチャードソンをはじめとしたイギリス人四人が正面より近づいてきたそうです。

行列の先頭にいた藩士達は身振り手振りで下馬して脇によれと伝えていたそうですが、イギリス人たちは「脇を通れ」という意味だと思い込み道幅一杯の行列の中に入り込んでいってしまい、当時の薩摩藩主の父、島津久光が乗る籠のそばまで来てしまい供回りの藩士達が大慌てで静止しようとした際に行列の中で無理やり方向を変えようとしたイギリス人に危険を感じ抜刀し切りかかったそうな…

リチャードソンは深手を負いとどめを刺され死亡、3人はこの先に出てくる神奈川宿の当時のアメリカ領事館本覚寺に助けを求めて逃げ込んだそうです。

その後、これに怒ったイギリスが幕府に詰め寄り。幕府は賠償金を支払ったものの、イギリスは軍艦を薩摩に派遣、薩英戦争に突入したとのこと…

まあ殺されたリチャードソンは気の毒なんですが、自業自得ですよね。

仮に私がイギリスに行ってエリザベス女王の車列に近づいていき、エリザベス女王が乗っている車のすぐそばまで行ってしまったら銃殺されても仕方ないと思うんですよ。

その国に行ったらその国の文化やしきたりがあるわけで、外国人はそれを理解して倣わないといけないわけです。

当時は情報が少なかったと言う人もいると思うのですが、あの時代に外国にいって商いをしたり政治をする人はそれなりの人であったと思われるので相手国の文化を知らないのはおかしいんですよね。

イギリスに詰め寄られて賠償金払ってしまう幕府も弱腰に見えるし、薩英戦争でイギリス海軍相手に受けて立った薩摩の男気を感じます。

幕末の薩摩は、見方によっては政府を転覆させたテロリストとも言えるので簡単に評価はできませんがこの事件に関しての心情は理解できるかなと。

もちろん、在日イギリス人の中にもリチャードソンに非があるという方もいたり幕府も賠償金なんか払う必要ないという人もいたそうです。

アメリカなんかはこの件については日本に同情的であったり、リチャードソンの知人達は彼は向こう見ずで傲慢だったという証言もありますね。

いかに屈強な薩摩藩士達といえど、この頃の日本人は小柄で小さいでしょうし「このイエローモンキーが」と侮っていたのかなと想像してしまいます。

結果、薩英戦争で艦隊に損害を与えるほど戦った薩摩藩はイギリス軍事力を目の当たりにし、イギリスと手を組み攘夷から倒幕の流れにつながるわけです。

このような事から外交は主張すべきものは主張しなければいけないんだなと強く思いました。

生麦②

歩いているとこんな事を考えていたりします(笑)

国道との合流部にはキリンビールの工場があります、ここのレストランで食事をすると色々なビールが飲めるそうです。

ここ横浜はキリンビール発祥の地でもともとは横浜の山手にノルウェー系アメリカ人が設立したスプリングブルワリーという会社が起源だそうです。

山手というと港が見えるヶ丘公園とか外人墓地のあたりでしょうか、ここからは少し離れていますね。

生麦と麦がつく地名だからビールっぽいですが(笑)ここが発祥ではないようです。

見学等には予約が必要なようで時間が無いのでスルーしました。

ちなみにこの国道近くのガソリンスタンドには八潮二中ラグビー部の同級生が働いており、久しぶりに会うことができました。

突然訪れた事と川崎から歩いてきた事を驚かれました。

生麦③

この辺りは川崎駅から5kmを過ぎた地点、足の指を意識していたので右足の母指関節が痛くなります。意識しすぎたか…ここからなるべく他の4指も意識しながら歩きます。この時点では他の部位はトラブルはありません。

ビール工場から神奈川宿までは国道15号線を歩きます、歩道が広いので歩きやすいのですが2車線の幹線道路ということで車がビュンビュン走っているので空気が悪いし江戸情緒もありません。国道整備や都市化によりここから神奈川宿までは旧街道はほとんど消えておりあっても断片的になっています。できるだけ旧街道を歩くように努めましたが飛ばしてしまったところもありました。

JRと京急の新子安駅の付近に菊屋という老舗らしい今川焼のお店が…関東の人は今川焼で通じますが、これ実は地域によって結構呼び名があるんですよね。所説ありますが、東北、東海、四国地方では大判焼き、関西九州では回転焼き、東北の一部地域ではおやき、広島では二十焼きという名前もあり、その他にもお店によって無数の呼び名があるそうです。埼玉生まれ埼玉育ちの渡しは今川焼、大判焼きと呼んでました。ちなみに今川焼の由来は江戸時代中期ごろ神田今川橋のたもとで桶狭間の戦いをもじって販売していた和菓子屋があったとか。

imagawayaki

中に入るとかなりレトロ、カウンター内で置物のような老婆が新聞を読んでおり来店した私に気づいていないので奥にいた男性に注文支払いしました。あずき入り120円を購入し椅子があったので中で食べさせてもらいました。味は普通、ちょっと焼きが甘いのか生地が半生のような感じがしました。でも120円で休憩させてもらっているので文句はありません。食べていると老婆と目があい「いらっしゃいませ」と言ってくれました(笑)やっと気づいてくれたようです。この地で長く商いを続けている感じなのでこれからも頑張ってもらいたいものです。

imagawayaki2

菊屋を出て少し歩くと船溜まりがあります、良い天気で良い雰囲気です。ここはもう港のすぐ近くなのです。

子安

京急線神奈川新町駅の辺りで国道にかかかる歩道橋を海側から鉄道が通る陸側に渡ります。裏の道に入ると横浜市立神奈川小学校の壁に神奈川宿の絵があります、日本橋をでて3番目の宿場町神奈川宿に到着したようです。この辺りはJR京急線の東神奈川駅があります。大学時代JR横浜線を使っていたので東神奈川行きというと懐かしい気持ちになります。

神奈川県の人に「出身はどこですか?」と聞くと、横浜、川崎、横須賀、藤沢、茅ケ崎等地名で言う事が多いと感じます。

私は大学が町田というほぼ神奈川に突っ込んだ地域だったので多数の神奈川県民と出会ったのですが、皆一様に地元愛が強いと感じました。ですが、神奈川が県名なのには由来があり、横浜は昔は小さい漁村に過ぎず陸側の街道沿い神奈川宿が栄えておりました現在の横浜駅の辺りは昔は海の中、ですが巨大船が行きかうようになる幕末では遠浅の江戸までは大きい船は入れなかったので良港である横浜が栄えました。現在は横浜駅、桜木町、みなとみらいの辺りが栄えていますがかつてはほとんど海だったんですね。

横浜駅が陸になったのは鉄道を通す際に陸地側に土地がなかったので埋め立てて線路を通したそうです。現在横浜が栄えているのは海運と鉄道のおかげなんですね。それでも神奈川が県名になったのは後に出てくる各国の領事館も多数神奈川宿にあり政治の中心であったからだと考えられます。今は海底を掘る浚渫や埋め立てのおかげで東京湾深くまで大型船が入れるようになりました。

行ってみると神奈川宿も歴史的にも素晴らしいところなので神奈川県民にも出身は神奈川ですと、言ってもらいたいと思いました

神奈川宿①

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テーマ: 東海道五十三次の旅

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プロ野球ドラフト会議が行われるグランドプリンスホテル新高輪を右手に見ながら国道15号線を御殿山に向かって緩い上り坂を歩く。

私は18歳そこそこの若者の就職先をクジで決められそれがテレビ中継されエンタメになっているはなかなかすごいことだと思ってます。

指名を外れた選手や家族にカメラを向けるというのは私には理解できません。

映画グラディエーターにもあるように、古代ローマでは人と人の殺し合いが娯楽であったので人間は残酷なものが好きなのかもしれません。

そんな事を思いながら緩い坂道を上ると、八つ山橋に出ました。

ここは橋の下には東海道線、山手線、京浜東北線等たくさんのJRの電車が走っており鉄道マニアにはたまらない場所であります。

日本鉄道発祥の地でもあり、明治五年品川-横浜間の日本で初めての鉄道が開通しました。当時の品川駅はこの橋のすぐ北側にあったそうです。

品川踏切

橋を渡ると京急線の踏切があります、ここは開かずの踏切だそうで無理に渡ろうとする輩もいるのか警察官が待機しております。

一本道を間違えたので国道15号線まで戻りました。

品川宿入り口品川石碑53次

地下道の出入り口は江戸時代っぽい作り、花壇の石碑には品川宿から順に五十三次の宿場が書いてありました。ここから緩い下り坂になっておりこのあたりが浮世絵の場所と思われます。この右側にある丘は御殿山と呼ばれ一作目のゴジラが上陸した場所だそうです。日本橋をでて東海道1番目の宿場町品川宿に到着です。

品川宿 浮世絵

東海道五十三次之内 品川 日之出 – 歌川広重 – 日本画 – 名画 – Canon Creative Parkより出典

下っていく様子が描かれています。海っぺりの街並みを見ると今はだいぶ埋め立てられたのだという事がわかります。

踏切

品川宿奴山口

こちらが旧東海道踏切、右側に京急線北品川駅が見えます。品川駅より南にあるのに北品川なのは先ほど記述した通り品川駅が港区にあることに理由があります。京急線の方が地名に忠実ということですね。

品川宿①

品川宿は全長約4キロの長い宿場町です、京急線の新馬場駅、青物横丁駅、鮫洲駅、立会川駅に沿っているので、商店街も全盛期ほどではないようですが近くに住む人々の台所としてまだまだ活気がある場所もあります。当時の街道の幅そのままだそうです、現在の大型車サイズの乗り物なんかもないでしょうしこの広さで十分だったんでしょう。

さすが首都東京、電線もなく石畳にするなど旧東海道の当時の面影を残そうという努力が垣間見えます。

品川宿③ペリー来航に備えた大砲を設置する台場につながる横丁の説明書きがあり。台場とは現在のお台場ではなく品川沖に来た黒船に対抗するために作ったもの、現在は台場小学校という学校になっており運河の向こう側には天王洲アイル等がある陸地があります。

品川宿⑥江戸時代の品川宿は宿や茶屋だけでなく、宿場女郎や飯盛女と呼ばれる給仕兼売春婦のような人たちがおり一大歓楽街であったようです。

今のようにホストやアイドルの推し活の為にパパ活をして身体を売るわけではなく、農村から買われて来て男たちの相手をさせられていた人たちもたくさんいたんでしょうね。※現代にもやむを得ない理由の為に身体を売らなければいけない事情がある人もいるかもしれませんが…

武士の家、商人の家、農家の家に生まれても長男であれば跡継ぎ、それ以外なら養子や奉公人として出されたり売られたり、どの身分でも職業選択の自由や、やりがいの為に仕事をする事や、自分らしく生きるとか余計な事を考える暇も無かったはずです。

それを不幸と思っていたのかいなかったのかは当時に戻って本人達に聞いてみないとわからないかもしれませんが、皆懸命に生きていたんでしょうね。

品川宿⑦品川宿⑧創業が明治時代のお店や、見るからに古いお店も多いです。畳屋さんも何件かあり、お寺がたくさんあるから成り立っているのかなとも思いました。

品川宿⑩本陣跡、現在は聖跡公園という公園になっており明治天皇も訪れたそうです。本陣は大名など身分が高い人しか泊まれない宿でした。お金持ちは食事がつく旅籠、庶民は素泊まりのみの木賃宿に宿泊したそうです。

品川宿⑪ 品川宿ガイド

その先には無料のお休み処がありました。中に入ると左側のカウンターに高齢の女性が座っておりました、周りには駄菓子が販売されておりました。こちらから挨拶をするも無言、おもむろにマスクをつけ始め歓迎されていない様子。日本人は他人が嫌がる事はしない事を美徳としている為、品川宿のパンフレットだけいただき即その場を離れました。たまたま機嫌が悪かったのか、声が小さすぎて私には聞こえなかったのかもしれません。

品川宿⑫ 品川宿⑯気を取り直して品川橋を渡ると

品川宿⑭ 品川宿⑱

和風装飾の城南信用金庫と向かいにはまたもや観光案内所があります。

品川宿⑮

 

その先には和風モダン建築の城南小学校が…

品川区は財政が豊かな自治体であるとつくづく感じますね。

高級旅館のような佇まい、未来を担う子供たちにお金をかけるのは正しい選択ですね。

ここから青物横丁駅を過ぎ、城南地区の免許センターがある鮫洲駅を通過すると商店も少なくなります。

tachiai

立会川にかかる浜川橋、別名涙橋と呼ばれます。なみだ橋というと漫画あしたのジョーの舞台となった南千住駅のそばにもありますね。そちらは泪橋と書きますが成りたちは似ているようです。

この先に鈴ヶ森の処刑場があり罪人は江戸から処刑場まで馬で運ばれる際に、密かに親族が見送りに来てこの橋のたもとで涙したそうです。

品川宿㉕

宿場の南側のはずれには鈴ヶ森の処刑場があります、明治4年に廃止されるまで稼働していたそうです。大経寺というお寺が併設しております。江戸の南の玄関口鈴ヶ森に処刑場を置くことで、江戸に入ってくる人々に生首を並べたり磔で殺された罪人達を並べる事により「江戸で悪さをするとこうなるぞ」と見せつけていたそうです。先ほどお伝えした泪橋がある日光街道奥州街道の江戸の北の玄関口千住宿にほど近い現在の南千住にも小塚原処刑場があり回向院というお寺がありますね。あちらも罪人だけではなく病気等で亡くなった吉原の遊女達など身寄りがない方々が葬られた投げ込み寺とも呼ばれていたそうですが、こちらも似たような機能を果たしていたと考えられます。つくばエクスプレスを建設していた時は南千住駅付近では掘ると骨がゴロゴロでてきたという話もあります。コツ通りと呼ばれる通りもありあの辺りは昼間にいってもうすら寒い感じがしますね。

品川宿㉔ 品川宿㉒ 品川宿㉑

写真にあるくぼみに柱を立て、そこに縛り付けられブスブス刺されて刺殺されたり火あぶりにされたそうです。

真ん中の写真は首洗いの井戸、処刑したあとの首を洗った井戸だそうです。井戸水は海水だそうです。

個人的には火あぶりはきつそうなので心臓や頭を一思いにやってもらいたいです。

もちろんどちらも嫌ですが。

こういう皆に見せしめて犯罪の抑止効果を図るというのは割と良い方法なのではないかと私は思っています。

現代の火あぶりは物理的に燃やされることではなく、悪さをするとX旧ツイッターなどインターネットで炎上し見せしめにされることではないでしょうか?違法な事や変な事はしないようにしようという気持ちが生まれこれも抑止力になっていると思います。もちろんフェイクニュース等もありますのでそれらには気を付けねばなりません、今も昔も冤罪を無くすことはなかなか難しいですが…

品川宿㉓ 品川宿⑳

とんでもない罪人も多数処刑されたのでしょうが、中にはいわれのない罪に問われ殺されてしまった方も少なくなかったんでしょうね。どちらも死ねば仏という事で安らかにと50円支払いお線香をあげさせていただきました。※金額はうろ覚えです。

鈴ヶ森

お線香の隣にこのような冊子があったので購入、確か200円か250円だったと思われます。

ここを訪れたのは15時15分、日本橋を出て3時間以上経過しました。左足のマメが大きくなり歩く度に痛みが走ります、足の指が使えていないんですね。ここから意識して指を使い横アーチを作りマメに当たらないように歩きます。

ここからは再び国道15号線と合流します。学校帰りの小中学生とすれ違います、皆元気です。

大森

左手にしながわ水族館、右手に大森海岸駅それを過ぎると左手に平和島競艇場があります。

現在の娯楽施設は品川宿の南側に位置しているようです。

それをすぎると再び旧東海道、美原通りに入ります。大森は恐らく品川宿と川崎宿の間の宿であったのではないかと思います。

間の宿(あいのしゅく)とは旅人が休める茶屋等がある町で基本的に宿泊はできなかったそうです。

大森②

美原通りについての説明があります。

大正時代以降、国道整備の際は人家が密集していたのでそれを避けて作られたそうです。

旧道が現在も残るのはそういった理由なんですね。

大森④大森⑥

かつて大森、羽田一帯は日本一の海苔の生産地だったので海苔問屋さんが多いです。関東大震災以降大型船を東京湾に入港させるために掘削、埋め立てが必要になり、東京オリンピック前の昭和37年にすべての漁業権を放棄し江戸中期から続いたこの近辺での海苔の養殖は翌38年の収穫を最後に幕を閉じたという歴史があります。

ですが海苔養殖や生産の技術はここから全国に広まったと言われており、今も技術の継承は続いているそうです。現在は海苔問屋だけが残され、お世話になっている人に愛知産、佐賀産の海苔を購入しました。しばらく歩くと大森警察署前で再び国道15号線と合流

この辺りでは右大腿四頭筋外側頭が痛くなってきます。

六郷橋手前セブンイレブン

京急蒲田駅を通過この辺りは歩道がとても広いので歩きやすいのですが足に激痛が走るためとてもつらかった区間です。

雑色駅の手前にあったセブンイレブンでトイレ休憩かりんとう饅頭とお茶を購入。

品川駅以来久々に腰を掛けました。

糖質を入れると元気がでます、六郷の渡しまであと少し。時刻は16時30分

六郷橋① 六郷橋②

 

六郷神社を過ぎると六郷橋に向かう車道と、旧道の側道にわかれます。

その先の階段を上ると…

六郷橋③ 六郷橋④

 

やっと多摩川に到着

かつては橋を架けても流されてしまうため、大正時代の六郷橋ができるまでは渡し舟による渡河が一般的だったそうです。

“出典 東海道五十三次之内 川崎 六郷渡舟 – 歌川広重 – 日本画 – 名画 – Canon Creative Park川崎宿浮世絵

 

 

 

 

 

 

六郷橋⑥神奈川県川崎市に到着

六郷橋⑧ 六郷橋⑩

 

対岸には明治天皇が渡ったという記念碑と常夜灯のレプリカがありました。

階段を降り国道をくぐると旧東海道にでます。

川崎宿② 川崎宿① 川崎宿③

川崎宿も電柱が無く石畳風の歩道になっております。

川崎宿⑥ 川崎宿④

少し歩くと右側に本陣跡があり、現在はマンションになっておりました。現代の高級籠、欧州外車が二台停まっておりました。

町人風情が乗れる籠ではないですね。今も昔も本陣に滞在できる人間は身分が高い方のようです。

川崎宿⑤

川崎宿にも品川宿と同じような施設がありましたが、この後の用事に間に合わない為スルー

川崎駅① 川崎駅

17時30分川崎駅に到着、帰宅ラッシュの時間帯なのでグリーン券を購入、上野東京ライン高崎行だったため上野で常磐線に乗り換えて北千住まで快適に乗車できました。

一日目地図②

 

当日の徒歩の移動距離25.08km 歩数35,838歩

電車賃1,990円 八潮-日本橋 川崎-亀有 グリーン券含む

深夜バス462円 亀有駅-八潮駅

飲み物軽食代 504円

かきあげそば 420円

お線香代、小冊子 250円

お土産(海苔)1,280円

合計4,906円

両さん

 

川崎駅から亀有駅までは1時間ほど、昔の人からは考えられないスピードです。

ちなみに江戸時代の人は初日に戸塚宿を目指したそうです、距離にして40km!私の倍歩く計算になります。

箱根駅伝の1区、川崎の先にある鶴見中継所までは1時間ほどで走ってしまうそうです。

まあ昔の人も、駅伝ランナーも私の体重の半分なんですけどね…と言い訳。

ちなみに、この後佐藤義人先生のセミナーがあり。右大腿外側が痛くなる原因はつま先が外を向いていることが原因と判明。

がに股気味に歩いているからなんですね。次回は修正して挑みたいと思います。

次は恐らく11月の最終週か12月になりそうです。

次の記事 東海道を歩く③ 2日目 川崎宿~神奈川宿 

 

 

 

 

 

 


テーマ: 東海道五十三次の旅

いよいよ初日、東海道行脚スタートです。

9時に起床、当日までどうしようか迷っていましたがこれを逃すと最低一か月は先になってしまうのと秋とは思えない温暖な気候だったこともあり出発を決めました。

初日という事もあり目的地は品川宿、行ければ川崎宿まで行きたいと思い電車を乗り継いで東西線、銀座線の日本橋駅へ

リニューアルされており木目調の和風なデザインが良い感じです。

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銀座線は日本で一番最初の地下鉄という事もあり天井が低いです。

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日本橋を渡っていざ出発、長い旅の始まりです。

国道15号線を銀座方面に向かいます。

三越本店側から見た日本橋、三越(旧越後屋)は1673年創業というから驚きです。

ワタクシはデパ地下部分くらいにしか用はなさそうです。

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出典 東海道五十三次之内 日本橋 朝之景 – 歌川広重 – 日本画 – 名画 – Canon Creative Park

浮世絵の日本橋は写真とは反対側から見た図ですね、朝木戸が開き大名行列が旅立つところと魚河岸から仕入れた魚を売りにいく行商人だそうです。

昔は日本橋の北岸には魚市場があったんですね。

ちょうど昼の12時とあってランチを食べに行くサラリーマンたちがたくさんいました。

ビルケンのサンダルでリュック姿の私は完全に浮いております。

首都高速についている日本橋の文字は最後の将軍徳川慶喜が書いたものだそうです。

道路原票日本道路元票

江戸時代は五街道、現在は七つの国道の起点となります。本来の元票は車道にあるそうです。

 

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橋の上から見た日本橋川

2035年から首都高の地下化工事が始まり、2040年には高架の撤去も完了するそうです。

ある意味いまの状態を見るのも貴重な体験かもしれません。

看板

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西川ふとんがあったビルが建て替えしておりました、昔の日本橋の写真が工事現場の外壁に描かれており中々興味深いです。

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コレド日本橋室町があります、日本橋界隈は三井グループですね。三越も三井グループのルーツだそうです。

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少し歩くと右側に東京駅八重洲口が見えます。

向こう側のビル群は三菱地所など三菱系列となります。丸の内は三菱村とも呼ばれますね。

京橋

 

少し歩くとまた首都高速の高架が、下には京橋の一部が残されております。

かつてはこの下に京橋川という川が流れており、日本橋を出て京都に向かうのに一番最初の橋が京橋であったそうです。

江戸は水運が盛んでこのような川が何本もありました。

物流の主役が舟から自動車の時代になり1954年昭和34年に首都高設置のため埋め立てられたそうです。

たもとに警察博物館がありとても興味が惹かれましたが時間がいくらあっても足りないので通過。

後日訪れよう。

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銀座交差点 銀座は読んで字のごとく貨幣の鋳造と銀地金の売買を行っていた場所で、日本で一番地価が高い場所と言われています。

銀座役所は現在のティファニー銀座本店がある場所だそうです。この辺りは欧米や東南アジアからと思われる観光客がたくさんいました。

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銀座を過ぎると人通りも少なくなります、そして再び高架が現れます。

ここも京橋と同じ時期に汐留川が埋め立てられ役目を終えた新橋。

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新橋駅に到着

新幹線がひっきりなしに通過します、これに乗れば現代では二時間半で京都に到着できるわけです。

自動販売機

コンビニと並ぶ現代の茶屋、自動販売機。私のような貧しい町民には嬉しい100円のノーブランドのスポーツドリンクを購入

増上寺

 

大門の交差点、右手には増上寺が見えます。

私が尊敬する安倍晋三元首相など数々の著名人の葬儀が行われた歴史ある寺院です。

その奥には六本木ヒルズが…現代の天守閣ですね。

かつては若手のIT長者達がこぞって住んでおりましたが今はどうなのでしょう?

ワインを持ちながら「見たまえ人が虫のようだ」と我々を上から見下ろしている身分が高い方がいるのかもしれません。

資本主義社会は見えない身分が存在するのです、でも私はそれをネガティブにはとらえていませんが…

頑張って努力した人間が豊かになるのはある意味正しい姿だと思います。

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現在マイナス2kgで体重計を表示しているというジムを発見。

何か合理的な理由があるのか考えましたが脳に糖質が不足しているのか理由は不明。

誰か教えてください。

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浜松町駅を過ぎると金杉橋が、東京湾竹芝ふ頭にそそぐ古川にかかっております。

屋形船が係留されておりました。

月鳥

 

直前にあまりおいしくないそばを食べてしまったので食べられませんでしたが。

文政8年1825年創業の鶏料理のお店が!お弁当もあったのでここで食べればよかった…

西郷さんも食べたのでしょうか?

今度改めて訪れたいと思います。

お蕎麦屋さんは少し酸っぱい味がしたのと少しおなかを壊したので※因果関係は不明

営業妨害にもなるので掲載はやめます。

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田町駅の近くまでくるとこんな石碑が…

薩摩藩の蔵屋敷があったところで現在は近代的なビルが建っております。

幕末に西郷隆盛と勝海舟が会談し江戸の住民を戦いから守るため江戸城無血開城を取り決めた場所だそうで。

小説やドラマ、映画でもよく出てくる場所ですね。

都内はこういったものがシレっとあります、車や電車で移動していると見逃してしまうものを発見できるのも徒歩旅の醍醐味かもしれません。

高輪大木戸

しばらく歩くと都営浅草線の泉岳寺駅の脇に高輪大木戸跡が…

左側には2020年に開業した高輪ゲートウェイ駅の周りの大規模なビル建設が行われております。

大木戸は街道筋にある簡易的な関所で夜間は閉められ江戸の安全を守っていたわけです。

isigaki大木戸 大木戸後説明

 

漫画藤枝梅安でも木戸番の男が出てくる回がありました。

梅安先生の鍼灸院はここから品川台町なのでまさに漫画小説の舞台なのです。

高輪ゲートウェイ駅の駅名由来はこの高輪大木戸だそうで、そのまま高輪大木戸駅でもよかったのではと個人的には思います。

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国道15号沿いにはこのようにビルの間に神社仏閣が多数あり、とても古いお店なども点在します。

このことから、とても歴史がある街道なのだと感じることができます。

品川駅

 

やっと品川駅に到着。

品川駅がある場所は港区で品川宿があった場所はもう少し南側になります。

駅の向こうの高層ビル群は昔は海だったそうです。

ここまで10kmほど、左足の中央部にマメができました。

日本橋を発ってからちょうど2時間

トイレ休憩をして先に進みます。

一日目地図

 

 

次の記事、東海道を歩く②1日目 品川宿~川崎宿

 

何故東海道を歩くのか

 


テーマ: 東海道五十三次の旅

2023年10月31日火曜日より東海道を徒歩で踏破するという試みを始めました。

理由はいくつかあり

一つ目の理由は、正しい歩き方をトレーニングしたいということ。

ラグビー日本代表トレーナー佐藤義人先生のセミナーsato trainer’s academyを受講した際にフォアフットという歩き方を教えていただきました。

現代起こる様々な足回りを始めとした不調、巻き爪、外反母趾、膝痛、股関節痛、腰痛等は歩き方が原因の事も少なくないのでこれらを防ぐ為、患者さんに指導できるようになるためということもあります。

さらに正しい歩き方を習得するとパフォーマンスも上がるのです。

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峠越えやサンダルとの違いを実感するために靴を使うこともありますが、基本的にはビルケンシュトックのサンダルで挑戦。

佐藤先生はサンダルで24時間徒歩で歩き続けるというトレーニングを何度もしているそうで…ラグビー日本代表の堀江選手、松田選手もフランスワールドカップの前年行ったそうです。実際やっているとこれがいかに大変なことか実感できると思います。

歩くことにより自らを鍛え、歩き方のエラーを痛みで知り身体の仕組み、正しい歩き方を模索していくことが目的です。

ダイエット、メタボ対策というのもあります(笑)

 

もう一つの理由は、私自身の学びのため。

私はあまり学生時代勉強しなかったというのもあるのですが…平和主義の私は人気がある戦国時代の事等はほとんど興味がなく平和な江戸時代や欧米と折衝して近代国家の礎となった現代につながる幕末の歴史の方が好きなんですね。※まあ幕末もかなり戦争してますが…

恥ずかしながら今も歴史はほとんど詳しくないのですが、特に戦国時代以前の事はあまりよくわかっていません。

それらを含めて歩きながら学んでいければよいと思っています。

池波正太郎などの時代小説等にも出てくるように東海道は1601年から徳川家康が整備した五街道の一つ(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)江戸幕府は日本橋京都間に53の宿場を設け、ご存じの通りこれが東海道五十三次の名称の由来となっております。

東海道は家康が整備する遥か昔から東西交通の要となっていたそうで。

大衆はもちろん、戦国時代の武将達、江戸時代の参勤交代の大名行列や幕末の志士達、埼玉の偉人渋沢栄一等、歴史を彩った様々な人々が往来していたと思うとなかなかロマンがあります。

東海道で京都、大阪まで行くというと現代ではまず浮かぶのは東海道新幹線、あとは東名高速道路を経て車やバスで行く。

もしくは、羽田や成田から大阪伊丹空港、関西国際空港まで行く今の常識的な移動ではないでしょうか?

私は現代では当たり前の東京ー大阪間の交通機関はほぼ利用したことがあります。

変わり種としては若い頃、お金が無かった私は大学の同級生の結婚式が三重県四日市市であった為、青春18きっぷを使い普通列車で四日市まで行き、翌日大阪でサラリーマン時代の同僚と会いランチしたあと普通列車を乗り継いで東京まで帰ったこともあります。

あとはサラリーマン時代名古屋出張の際に今は無き夜行列車ムーンライトながらを利用し夜通し東京まで帰ったりと東海道線には色々な思い出があります。

電車

弊所待合に飾っている鉄道模型

これは並走している部分もある横須賀線カラーですね、東海道線は緑とオレンジになります。

 

もう一つの理由は、日本をちゃんと見てみたいということ。

私は今年フランス、スペインを旅行し、昨年はアメリカカリフォルニアを旅行。

年に一度程度の海外ですので旅好きというにはおこがましいですが、一般の方よりは旅をしている方だと思います。

海外旅行好きにはあるあるかもしれませんが…そういう旅行に行くと他人によく言われるのが「日本もまだ行ってない所がいっぱいあるよな」ということ。

言ってる人は悪気はないのは百も承知ですが…特に海外旅行に行ったことが無い人なんか言いがちですね。(笑)

なのでそういう人に「国内も結構行ってて旧東海道を踏破しましたよ」とマウントを取りたい言わば虚栄心というやつです。

私が好きな鉄道系、旅行系ユーチューバースーツさんの東海道電動アシスト自転車の旅の影響もかなりあります。

言い回しなど言ってみればパクリいや、インスパイア系劣化版という事でご容赦ください。

実際、日本も行っていないところがたくさんあるのでこれを機に色々見てきたいと思います。

 

江戸時代の人々は14日程度で京都まで歩いたそうですが、整骨院の営業があるので全行程続けて歩くことは困難ですので休みを使って時には一泊二泊の行程を経てその都度八潮に戻り月1~2回のペースで2024年中には完歩したいと思っております。

ライトな鉄道好きなので帰りは電車や新幹線を利用したり、少し変わった方法で帰京したりもしようと思います。

 

その都度、身体に関して変化した事、感じた事、そこで見た様々な事を当ホームページで発信していきたいと思いますので興味があればご覧ください。

 

 

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